試稿日本禁酒・断酒運動史年表 望月雅彦編
更新日2016年10月10日
※この年表は現在進行中です、陽暦を規準にしていますが、陰暦表記できるものは順次[ ]内に記述して行きます。出典は末尾に①~⑳というように順次記載途中です。末尾に[実見]とあるのは、編者が直接、見聞した事実です。
1775年【米国】ライマン・ビーチャー(後に牧師・博士・テンぺランス・ソサィティー主宰)米国ニュー・ハーベンに誕生。母は分娩のため死亡、叔母に養育されエール大学の前身の高等学校を卒業し、牧師となる。ビーチャ-牧師はロングアイランドのイースト・ハンプトン教会をはじめに処々の教会を牧し、当時の風習として牧師の間での飲酒が横行していて、ブレスビテリアン(長老派)教会牧師の全国青年会終了後などではビールやウイスキーを飲酒し高談喧騒することを常としたと云う。⑤
1808年【米国】ライマン・ビーチャー牧師、牧師総会後での飲酒狂態を演ずる牧師が多いことに憤慨、本部に禁酒を要請すると共に同志と共に宣言文を公にして禁酒運動を起こした。⑤
1833年(天保4)6月11日【4・24】、矢島楫子(後、日本基督教婦人矯風会初代会頭)が肥後国上益城郡津森村杉堂(現、熊本県上益城郡益城町)に惣庄屋矢島忠左衛門直明と母鶴の1男7女の6女として生まれた。幼名は、かつと名付けられた。
1845年(弘化2)10月9日【9・9】潮田千勢子(後に足尾鉱毒事件による被害者救済に尽力。日本基督教婦人矯風会3代目会頭)が信濃国飯田藩の藩医丸山龍眠の次女として誕生。
1846年(弘化3)この年、安藤太郎が四谷北町に誕生。(後にハワイ国在勤日本国初代総領事・東京禁酒会初代会長を経て初代日本禁酒同盟理事長となる。)
1847年【北欧】この年頃からスエーデンの医師マグヌス・スフがジャガイモ焼酎の飲酒者の中毒症状を研究「アルコール中毒」と命名、数年の間に学術雑誌・学会発表などで喧伝され認知された。
1851年(嘉永4)10月25日【10・1】根本正は水戸に近い五台村(現、茨城県那珂市)東木倉で、父徳孝と母はやの次男として誕生。(後に衆議院議員となり、未成年者飲酒禁止法成立に尽力)⑲
1853年(嘉永6)7月5日【6・3】、米国ペリー艦隊が浦賀に入港。12月21日、ペリー艦隊の琉球調査隊の2名の隊員が恩納村(沖縄本島北部)で酒 を求めて「番所」に掛け合ったが 得られず、民家に侵入したがまたも得られず、隊員の1人が小銃を乱射した。住民2名、子供1名が銃弾によって重軽傷。 琉球王国の通詞が「犯人は最初から酔っていたように見えた」と話した。26
1854年、(嘉永7年)2月13日【1・6】、米国ペリー艦隊が再来航。3月31日[3・3]、日米和親条約締結(神奈川条約)下田・箱館(現、函館)を開港。6月12日、ペリー艦隊のレキシントン号の水兵ウィリアム・ボード殺害事件発生。(琉球滞在中に泊村の宿営地から「酒を入手するため」那覇に出たウィリアム・ボード他2名が、民家を物色し焼酎6合ほどを飲酒。ウィリアム・ボードは他2名と別れた後、琉球女性を刃物で脅し乱暴、悲鳴を聞きつけ駆けつけた住民により撲殺された事件。)2611月27日、安政に改元。
1855年(安政2)この年、米国長老派教会は在清国宣教師に日本開教を命令した。⑭
1858年(安政5)7月29日[6・19]、日米修好通商条約締結、その条約の8条に居留地における米国人の宗教の自由、宗教建築物(教会)建設の自由が認められた。11月、中国在住の米国プロテスタント宣教師サミュエル・ウエルズ・アダムズとエドワード・サイルが、キリスト教を日本に布教する可能性を窺うために米国船ミネソタ号で長崎に来航。長崎来航中の米国船ポーハタン号の従軍牧師ヘンリー・ウッドの3名は米国船にて協議して聖公会、改革派、長老派の各ミッション本部に対し「人物優秀なる宣教師を至急派遣すべきである」との文書を各ミッション本部に提出することで一致。⑭ほか
1859年(安政6)1月24日[12・21]神奈川宿で外国人の買い物に対しては酒の販売は禁止、売上金等を記載した帳簿を宿役人に提出することを廻文⑭3月13日[2・9]、伊藤一隆(後に北海道庁初代水産課長・第3代日本国民禁酒同盟理事長)父平野弥十郎、母とみ(冨子)の4男として誕生。長兄大太郎に幼名を徳松と名付けられた。後に本家筋の伊藤家に養子となり、伊藤姓を名乗ることとなる。5月2日[3・30]米聖公会宣教師T・リギンス中国から長崎に到着(開港後の初の伝道者)。6月28日[5・28]、幕府6月以降神奈川(横浜)・長崎・箱館(函館)の3港において露・仏・英・蘭・米5国との自由貿易を許可する旨布告。⑭
1861年(万延2・文久元)、この年、米国改革派教会のJ.H.バラ夫妻が神奈川に渡来。
1863年(文久3)12月25日【11.21】青木庄蔵(後、実業家・政治家・禁酒家)が大和国吉野郡秋野村(現、奈良県吉野郡下市町)に誕生。③
1865年(慶応元年)7月28日、長尾半平(工部大学校後、東京大学工学部土木科卒、日本国民禁酒同盟第2・4代理事長、禁酒・禁煙遵法運動中央委員長他)が越後村上藩の藩士長尾右門・母くらの長男として、村上町本町に生まれる。 この年、【米国】米国で南北戦争起る。
1868年(明治元年)1月、王政復古の大号令、戊辰戦争始まる。
酒造規則五カ条制定(一時冥加金20両とする会計官布達)⑦。11月、J.H.バラ夫妻により海岸教会(日本初のプロテスタント教会)が設立され、横浜居留の外国人礼拝所、日本人のための英語教場として使用された。
1869年(明治2)酒造鑑札制度制定⑦。
1871年(明治4)酒造免許制度制定⑦。
1872年(明治5)9月1日【7・29】、山室軍平(後に救世軍中将、日本人初の日本軍司令官、禁酒にも尽力)岡山県阿哲郡哲多町(現、新見市哲多町)に、山室佐八、登毛の3男として誕生。この年、大阪の渋谷庄三郎、米国人ヒクナツ・フルストの指導のもとに渋谷ビールを釀造。11月9日、明治政府は改暦詔書を布達「明治5年12月3日を以て、明治6年1月1日とする。」
1873年(明治6)切支丹禁令の高札が撤廃された。外国人海員禁酒会が発足。(サー・ハリー・スミス・パークス会長。在日英国公使)。開港場に出入りする外国人船員の飲酒による日本人とのトラブルを未然に防ぐ目的があつたと思われる。7月28日、井上 一次(いのうえ かずつぐ、後に陸士・陸大を出て陸軍中将に昇進、第二師団長に親補され、第二師団隷下部隊の排酒化を進めた。)石川県に誕生。12月、【米国】オハイオ州ヒルスボローでE・タムソンを中心に禁酒運動が起こる。この年、長老派の医療宣教師J・C・ヘボン(1815~1911)の指導により海岸教会の有志が横浜禁酒会を組織。⑭ 地租改正
1874年(明治7)11月、【米国】WCTU(キリスト教婦人禁酒同盟)がオハイオ州クリーブランドにおいて発足。
1875年(明治8)横浜禁酒会(会長:奥野昌綱)牧師奥野昌綱(おくの・まさつな、1823~1910)ら60余名の会員と共に海岸教会にて発足。この年、酒類税則が制定される。⑦
1876年(明治9)8月14日、札幌農学校開校(現在の北海道大学)。校長調所広丈、教頭にはマサチューセッツ農科大学長ウィリアム・スミス・クラーク博士が就任し、一期生に「禁酒・禁煙」を誓約させた。この年、国産ビールの広告が東京日日新聞に掲載される。この頃、横浜にビァ・ガーデンも開かれていたという。
1877年(明治10)西南戦争勃発。
1879年(明治12)3月、根本正が渡米しオークランドで学ぶ⑲。この年、ロバート・スミス(ドクター・ボブ、後にAA米国共同創始者の一人)誕生。
1883年(明治16)、【米国】フランシス・ウィラード女史の尽力によって、ミシガン州デトロイトの大会で承認され世界キリスト教婦人禁酒同盟(以後、WWCTUと略記)が創立された。
1884年(明治17)、大日本節酒会発足⑭
1885年(明治18)、根本正がバーモント大学に入学。⑲
1886年(明治19)1月、安藤太郎ハワイ国に初代総領事として赴任。6月、WWCTUから第1回派遣員メアリー・レビット女史がハワイ・オーストラリア巡り来日、日本各地を巡回し日本婦人に対し禁酒講演行う。メアリー・レビット女史の講演に共鳴した30余名の夫人で東京婦人禁酒会の設立を討議。12月6日、東京・日本橋教会で東京婦人矯風会として発会式挙行、初代会頭に矢島楫子を選出。会員56名で発足。この会は禁酒のほか旧幕藩体制時代からの男尊女卑の悪弊を改める運動をする意味で、「東京キリスト教婦人矯風(きょうふう)会」(以後、矯風会と略記)と名付けられた。11月27日、住吉町会堂で横浜矯風禁酒会(会長林蓊 はやし・しげる)が会員数17名で結成された。京都に「反省会」(本願寺・普通教校)起る。
1887年(明治20)、7月28日、片山哲(後に第46代総理大臣、日本禁酒同盟第8代理事長)が紀州田辺(和歌山県田辺市)で代言人(弁護士)をしていた父片山省三、母雪江(飯田重遠の娘)との間に長男として誕生。【カナダ】救世軍は女性アルコール依存症ホームを開設。この年、札幌禁酒会(会長:伊藤一隆)が日本基督教独立教会で発足した。伊藤等の活動は全道に及び同年中に「北海禁酒会」と改称し『護国の盾』を発行。
1888年(明治21)、安藤太郎初代ハワイ総領事は断酒を決意、文子夫人が贈り物の酒樽を割り、酒を廃棄。メソジスト美山貫一牧師により受洗。両者が協力してハワイ日本人禁酒会発足。(後、1897年に奥村多喜衛牧師により再組織された。)。4月、住吉会堂にて横浜矯風禁酒会が横浜禁酒会と改称(会員数291名)。機関紙『横浜禁酒雑誌』を創刊し、禁酒運動の一翼を担った。
1889年(明治22)2月11日、大日本帝国憲法発布。同年10月、安藤太郎帰国。根本正がバーモント大学を卒業し11月に帰国。
1890年(明治23)WWCTUから世界遊説員ジェシー・アッカマン嬢来日、東京府下各所で遊説し禁酒誓約者6百余名を得る、この人々を中心に東京禁酒会が発足。会長安藤太郎、副会長根本正、通信書記佐々城豊寿、潮田千勢子、入江錦五郎、編集書記永野貫一、中川永輝が就任。12月3日、東京禁酒会は月報(会報・雑録に英文附録)を発刊①。この年、矯風会は元老院に一夫一婦制と海外での日本婦人の売娼取り締まりを建議するなど、禁酒・廓清問題を中心に、活発に活動を展開し、女性のエネルギーを引き出して、男子中心の禁酒運動と連帯した。
1891年(明治24)10月28日、濃尾地方に大地震が発生。矯風会は現地に医師・看護婦を派遣。
1892年(明治25)WWCTUの教育部長メリー・ウエスト嬢来日。東北地方、北海道で遊説を行い
帰京すると東海道、北陸に向かい遊説中に金沢にて発病12月1日、米国人伝道師宅で永眠。根本正、美山貫一は同地に赴き遺体を東京に戻し、16日、麻布鳥居坂教会にて葬儀を執行。柩を横浜に送る。18日、京浜の禁酒矯風会ではウエスト嬢の追悼演説会を厚生館にて開催①。
1893年(明治26)4月3日、矯風会は東京・霊南坂教会で第1回全国大会を開き、全国組織が成立。日本キリスト教婦人矯風会と改称、初代会頭を矢島楫子に、本部を女子学院に置いた。5月、東京禁酒会月報は第26号にて廃刊され新に「禁酒新報」が発刊された①。
1894年(明治27)5月12日、東京禁酒会の招きで福島安正中佐(シベリア単騎横断・後陸軍大将)が神田基督教青年会館で禁酒講演「飲酒していたらシベリア単騎横断は為しえなかった」と演説①。この年清国に宣戦布告(日清戦争勃発)。
1895年(明治28)3月、「禁酒新報」が「国の光」と改題①。4月17日、日清戦争講和条約調印。この年、救世軍英国より日本に宣教団を派遣。(日本救世軍の誕生)
1896年(明治29)11月、WWCTUから世界遊説員クララ・パリッシュ嬢来日し遊説を為す①。
1897年(明治30)7月26日、クララ・パリッシュ嬢の提言もあり禁酒運動のための全国組織の必要性を感じ、東京銀座会館に於いてその委員の選定を行った。(日本禁酒同盟会の起源)①。9月11日、銀座会館に於いて日本中央禁酒委員会が組織され同会の会則も議決された①。10月17日、小塩完次(後に第10代財団法人日本禁酒同盟理事長)長野県飯田市伝馬町の味噌醤油釀造業松岡屋小塩万次郎・可寿の次男として誕生。
1898年(明治31)1月12日、中央禁酒委員会に於いて「国の光」が中央部の機関雑誌に採用された。10月1日、2日の両日、全国の禁酒団体の代議員を東京九段の美以(メソジスト)教会に集め討議を尽くし日本禁酒同盟会(安藤太郎会長)が成立し発会式が開催された。「国の光」は同会の機関雑誌として満場一致で議決された。10月4日、クララ・パリッシュ嬢後事をラージ夫人に委託して日本を去る①。10月22日、早稲田専門学校(後、早稲田大学)にて禁酒演説会を開催、弁士は安藤太郎、伊藤一隆、ソバール、アレキサンダーで、同校で始めての禁酒演説会であった。
1899年(明治32)1月下旬、美山貫一牧師、東海道、大阪地方、中国、九州地方に禁酒遊説に赴く。5月30日、根本正(日本禁酒同盟会副会長)農商務省の嘱託を受け商業視察のためインドに渡航、8月12日帰朝①。
1900年(明治33)4月1日、未青年喫煙禁止法(法律第33号)が施行された。この月、長尾半平(後の日本国民禁酒同盟理事長)は台湾総督府の命で港湾調査のため渡英、ロンドンの下宿先で夏目漱石と同宿となる。長尾は滞英中に夏目に20ポンド程を貸し、帰国すると夏目から君には借金があつたと言って、翌日、返金してくれた。長尾は夏目を「きわめて几帳面な人なり」と評した。第四高等学校(後、国立大学法人金沢大学)では9月以降、禁酒主義を断行する事に決し、8月18日、生徒及び保証人に禁酒告知書を送付。官立学校における禁酒令の始まりである①。10月26日、27日、日本禁酒同盟会第3年会が横浜市蓬莱町美以(メソジスト)教会にて開催?。
1902年(明治35)山室武甫(やまむろ・ぶほ、救世軍山室軍平の長男・後にAAを日本に紹介)東京築地に生まれる。
1903年(明治36)7月4日、矯風会潮田千勢子が病没。
1904年(明治37)ロシアに宣戦布告、日露戦争勃発。
1905年(明治38)4月1日、松村春繁(後の高知県断酒新生会初代会長)、高知県香美郡在所村谷相に、父栄馬、母芳尾の次男として誕生、後に谷相小卒・土佐簿記学校を経て通信講習所に入所。日露講和条約。 この頃、矯風会守屋東(もりや・あずま)を中心に「禁酒・純潔・平和」をスローガンに少年・少女向けに「少年矯風軍」「少年禁酒軍」を創設。
1906年(明治39)4月、少年禁酒軍の広報誌『少年新報』15号を発行。
1907年(明治40)ウィリアム・ブース救世軍大将来日、通訳として山室軍平が活躍、中佐に昇進、書記長官となる。同年7月、伊藤一隆は米国公使エドウィン・ダンの知遇を得て、水産業から石油業に転進。紆余曲折あったものの日本石油に入社。
1908年(明治41)【ハワイ】住田多次郎がホノルル日本酒醸造株式会社を設立。
1910年(明治43)、石川啄木の歌集『一握の砂』「田も畑も売りて酒のみ ほろびゆく ふるさと人に 心寄する日」この歌からも東北の寒村の農民にも飲酒の弊害が及んでいることが解る。
1911年(明治44)、ハワイ島オーラーの岩崎キャンプでオーラー禁酒会(代表者・岩崎次郎)が発足。
1912年(明治45)1月2日、伊藤一隆、渡辺貞助技師を伴い渡米。7月、山室軍平著『禁酒のすすめ』初版発行。
1913年(大正2)、岡山県禁酒同盟結成。
1914年(大正3)、児玉正孝(こだま・まさたか 初代和歌山断酒道場長)広島県の造り酒屋の3男として誕生。この年、【欧州】サラエボ事件(第一次世界大戦の発端)発生。
1915年(大正4)12月26日、安藤太郎夫人文子が召天。
1916年(大正5)6月、青木庄蔵(実業家・禁酒家)は住居を大阪から京都へ転居し、大正6、7年と京都禁酒会の設立のために尽力③。
1917年(大正6)この年、山梨県甲府市で開催された日本禁酒同盟の総会で大阪禁酒会より「禁酒運動より宗教的色彩を除去すべき」との主張提案がなされたが充分な討議はなされなされず保留となった。それまでは「禁酒と言えば基督教者、又その事業すべては基督教関係の事業であるかの如く狭い見解に立って一切の集会や、その様式までが、基督教的な儀礼に拠っていたのでありました。」③
1918年(大正7)この年、横浜市で開催された日本禁酒同盟の総会で大阪禁酒会より再度「禁酒運動より宗教的色彩を除去すべき」との主張提案がなされたが、否決され大阪禁酒会は日本禁酒同盟を脱退。日本禁酒同盟の機関誌『国の光』に対抗し『新国民』を発行した。12月、京都禁酒会(会長青木庄蔵)が京都基督教青年会館で発会式を挙行。青木の主張は「禁酒会は決して基督教の独占すべきものではない、この主義、主張に共鳴し、且つ協力してくれる人々であれば、宗教、宗派の如何問わず相共に協同しその戦陣を張るには毫も支障はない。」③。この頃、大阪禁酒会は京都禁酒会、神戸禁酒会と合同し「国民禁酒同盟発会式」を、大阪では中ノ島中央公会堂、京都では岡崎の公会堂、神戸では下山手の基督教青年会館それぞれ記念講演を盛大に挙行した。阪谷芳郎男爵、島田三郎、沢柳政太郎博士、内田嘉吉、賀川豊彦、青柳栄司博士、中島玉吉博士、本多日生師(仏教家)、米国より来朝したウッド博士が講演した。仏教家を招いた記念講演に横浜禁酒会寺本会員が反撥し大論争となり、日本の禁酒運動は関西VS関東の構図となった③。この年、第一次世界大戦終結。
1919年(大正8)1月、青木庄蔵が山陰・九州地方に禁酒講演旅行。シベリア出兵、現地パルチザンと日本軍との遊撃戦が始まる。8月13日米国禁酒運動家ガンジェール来日、日本の有志禁酒家が銀行倶楽部に招待、米国大使モーリス、渋沢子爵も出席し忌憚ない意見交換が行われた。
1920年(大正9)【米国】1月16日、合衆国憲法修正第18条(禁酒法)が施行された。同年4月8日~18日、東京北部禁酒会により東京・飛鳥山(桜の名所)に泥酔者救護所が設置された。6月、青木庄蔵が東京に転居。この年、「日本禁酒同盟」(安藤太郎会長)と関西に起こった「国民禁酒同盟」(青木庄蔵会長)が合同し、財団法人日本国民禁酒同盟となる。
1921年(大正10)、青木庄蔵(日本国民禁酒同盟常務理事)が皇宮警手(宮内省警衛の士)に3回禁酒講話を行う。
1922年(大正11)3月30日、第45回帝国議会において未青年者飲酒禁止法案可決。(法律第20号)。4月1日より施行。 6月23日、シベリア出兵問題を閣議で「10月末までに沿海州から撤退」の方針を決めた。10月、第一回禁酒講習会が開催され全国から180名が参加。講師は沢柳政太郎、根本正、伊藤一隆、守屋東、高島米峰、長尾半平、鶴見祐輔、穂積重遠、田子一民であった。11月、沖縄県那覇市で沖縄廃酒期成会(会長大久保孝三郎)が発足、全国組織である日本国民禁酒同盟に加盟。青木庄蔵が二荒芳徳伯爵に禁酒を説き二荒伯爵は12月1日より3ヶ月の絶対禁酒を実行した③。
1923年(大正12)4月12日、アルコールの科学的研究・禁酒宣伝等を目的に財団法人青木匡済(あおき・きょうそう)財団が内務大臣より認可を受け、事務所を東京府北豊島郡西巣鴨町字新田777番地(豊島区・西巣鴨)に置いた。5月、【米国】青木庄蔵欧米禁酒視察の途次、エヴァンストンにてWWCTU会長ゴルドン女史を訪問③。52月、大城幸之一(おおしろ・こうのいち、1879-1932 医師・政治家)著「医学上から見たる酒害」(小冊子)が沖縄廃酒期成会から発行。6月16日、早大、明大、法政、一高、高師などが参加し日本学生排酒同盟(会長安部磯雄)が発足。7月5日、小塩完次(後、第10代日本禁酒同盟理事長)編集の排酒雑誌『行進曲』が創刊された。9月1日、関東大震災発生。この災害で東京禁酒会、日本国民禁酒同盟とも一時壊滅状態となる。日本国民禁酒同盟理事長、東京禁酒会会長伊藤一隆が復興に尽力。『禁酒之日本』(8月号)に浅草排酒少年団の写真が掲載された。11月10日、国民精神作興詔書渙発さる。11月21日、三井田川(筑豊炭田の最東南部)禁酒会が発起人森田駒吉、谷川忠也、佐藤忠浩、江川哲郎、井上新太郎、永井傳彦(でんひこ)の六名により発足。この年、岡山禁酒会館完成。
1924年(大正13)2月15日、長尾半平著『能率と酒』(小冊子)少年禁酒軍編・発行人守屋東・発行所婦人新報社が発行された。4月『禁酒之日本』(4月号)に岡山少年少女廃酒団の記事が掲載された。4月5日~6日第5回日本国民禁酒同盟大会が岡山市県会議事堂にて開催され、岡山禁酒会館にて日本で初の禁酒展覧会(来館者850名)が行われた。6月29日(日)「学生無酒デー同盟」(早稲田大学小塩完次ほか)主催で、無酒デー行進が芝増上寺境内から本郷→有楽町→銀座→日本橋→須田町→上野公園までデモ行進。10月31日。筆剣禁酒会創立。
1925年(大正14)、少年禁酒軍の月報「少年新報」1月号(228号)に「日本に禁酒軍が設立されてから、早や本年は23年になります」の記事有り。4月26日、日本国民禁酒同盟第6回大会が新潟日赤で開催。6月16日、矢島楫子(初代日本基督教婦人矯風会会頭)召天。享年93才
1926年(大正15―昭和元)2月1日、建国祭を期し鉄道禁酒会(当時会員が60名)が誕生。3月、井上一次が陸軍中将に親補され第二師団長に就任した。井上は「軍隊の飲酒は国防能力を阻害するとし又、除隊した兵士が故郷に戻り、郷土の排酒化を進めるべき」として、第二師団隷下各隊の排酒化を進めた。3月、25歳禁酒法案衆議院通過するも貴族院で否決。5月2日、鉄道禁酒会月次会講演会(講師永田基)開催。鉄道禁酒会6月6日、月次会で講演会(講師小塩完次演題「新社会建設」)を開催。聴衆に多大な感動を与えた。9月1日、鉄道禁酒会発足式挙行。12月、筆剣禁酒会に影響されて仙台婦人禁酒連盟創立。会員を募ったところ2百余名が衆参した。「我が国では5百万石の大切な食糧米を潰し、酒の洪水をこしらえ、15億万円のお金を浪費して居ります、其の為に経済は困難となり、道徳は破られ、健康は害され、思想は悪化し易く、いろいろの犯罪は増加して参ります。まことに恐ろしいことと存じます。」②12月25日、大正天皇が崩御す。摂政裕仁が践祖し、昭和と改元。第二師団歩兵第4連隊高城大佐は御不例より諒闇中謹慎の意を表すため酒保(軍隊内の売店)から酒を排除②。
1927年(昭和2)1月10日、大澤謙二(医学博士・貴族院議員「貴族院で最初に禁酒講演をなす。」)府下・野方の自宅で逝去(享年76歳)。同月20日、山形県最上郡新庄町・佐藤エマ子女史経営の佐藤裁縫女塾で東北禁酒同盟幹事長横澤籐太郎が禁酒講演をなす。感激した女性たちで、拒婚同盟発足。(「誓約書 私達は将来酒を飲む人と結婚せぬことを誓います。」高橋くにほか58名)。3月13,14,15日、第八回日本国民禁酒同盟大会が名古屋で開催。5月、宇垣弘(禁酒家)が仙台の第二師団隷下部隊を回り禁酒講話を為す②。
この年、河野裕明(後、慶応大学医学部卒・国立療養所久里浜病院長)が大連で誕生。
1928年(昭和3)、大城幸之一(前出)が、沖縄本島南部の玉城村(現、南城市)で玉城村廃酒既成会を設立。この年、鷲山純一(後の全断連副理事長)が静岡市に誕生。この頃、仙台婦人禁酒連盟の愛国貯金運動が活発になる。
1929年(昭和4)1月5日、伊藤一隆(東京禁酒会長)東京府手塚で召天(享年72歳)。4月6日東京禁酒会創立40周年記念総会で長尾半平が会長に就任。11月29日、田中道雄(後、神父となり『アルコーリクス・アノニマス』(ビック・ブック)の日本語訳や日本のキリスト教会でミーティング場を開くなどAA日本に貢献した。)長崎県で誕生。(洗礼名はペトロ、AAニックネームはピーター又はピート)。三井田川共愛組合では12月5日、絶対禁酒葬式を申し合わせた。
1930年(昭和5)4月、茅ヶ崎禁酒会(会長高橋誠一)が発会。この頃、神奈川県下には平塚の海軍火薬廠禁酒会、平塚護国禁酒会。川崎の旭光禁酒会。厚木の相場禁酒会。小田原の足柄禁酒会、高座の座間禁酒会、鎌倉禁酒会、八幡禁酒会、富士禁酒禁煙同盟。柳沢一雄の横浜青年禁酒団など続々起こり、神奈川県禁酒連合会(会長波多野貞夫、副会長高橋誠一)の発足となる。8月禁酒法反対群馬県既成同盟会(会長平田源作)が発会。会則第二條では「成人以上ノ者ニ対スル禁酒法規ノ制定ニ反対シ本会ト其ノ行動ヲ共ニスル同志ヲ以テ組織ス」とある。前橋市に本部が置かれた。」11月10日、「沖縄全島に挙がる 廃酒の叫び! 疲弊からの自覚と飲風打破」の見出しで大阪毎日新聞の鹿児島・沖縄版「西部毎日」に記事が掲載。この年ジャン・ミニー(後、メリノール会の宣教師として来日、日本でアルコール依存症を発症。一旦米国へ帰国。米国のAAグループに参加。再来日してスタンダードな形でAAプログラムを日本に根付かせた。)誕生。
1931年(昭和6)6月25日、日本青年館で廃娼大会が挙行される。翌第2日禁酒同士懇談会約80名参加。同月、28日銀座教会にて禁酒講演で450名参加。8月1日、山室軍平著『禁酒と基督教』救世軍出版及供給部発行。山室は、この本の自序で「禁酒会は各地に起り、禁酒村はそここゝに現れ、禁酒運動は日増しに盛んになって、二十五歳禁酒案の議会を通過する日も、あまり遠くはあるまいか、期待せらるゝ。」二十五歳禁酒法制定の機運が盛り上がる。
1932年(昭和7)3月1日、満州国建国(現在の中華人民共和国の東北部)。5月15日(日)海軍青年将校等による犬養総理大臣殺害反乱事件発生。(5・15事件)9月1日、三井田川禁酒会が伊田町三 井小学校で婦人部発足式を挙行(婦人参加者260名余、その後昭和11年には1,355名に増加)。12月21日、「禁酒!!!八丈島自力更生」の見出しで、「日本学生排酒連盟の先発隊は、禁酒運動界の権威九大教授医学博士諸岡存氏(後、第6代日本国民禁酒同盟理事長)をリーダーにして来る29日より翌月5日に至る禁酒運動による八丈島自力更生週間を実行することとなった。博士一行の来島は29日着の便船で、全島に亘り無料診療、映画による酒害宣伝、直接訪問等々大活動を開始する。禁酒同盟総幹事小塩完次(後、日本禁酒同盟第10代理事長)、同盟幹事横山鹿之亮、同国馬正一氏も暮れの多忙中を来島、八丈出身の石山力惠氏、大賀郷千葉政氏も真剣に力添えする由。」(南海タイムス)
1933年(昭和8)、1月5日東京の自宅にて根本正永眠。(享年83才)。4月1日~3日、日本国民禁酒同盟第14回(高知)大会が開催された。5月8日、岡山県禁酒会館(初代理事長綱島長次郎)が財団法人として認可された。9月15日、「郷里八丈島を訪ふ」の見出しで、日本国民禁酒同盟事業部・元救世軍大尉奥山茂の記事あり「私は7年ぶりに去る7月中旬郷里八丈島を訪れました。救世軍士官時代に3回程帰えったことはあるが今回は禁酒同盟の小塩総主事並びに学生排酒連盟一行10名を案内して且つ酒客院(後の八丈島断酒診療所)用地寄贈登記のためでありました。(後略)」(南海タイムス)。12月5日、【米国】合衆国憲法修正第21条(禁酒法の廃止)が効力を発した。
1934年(昭和9)2月5日、留岡幸助(東京禁酒会副会長)死去。4月21日東京禁酒会第45回総会にて生江孝之が会長に就任。岡山地方が大洪水にみまわれた。この年、ロンドンで開催された第20回国際禁酒会議に日本から小塩完次、E.C.ヘニガー(カナダ・ミッション派遣の宣教師)両代表が参加。
1935年(昭和10)1月23日、「(八丈島)中之郷村に禁酒既成同盟会生る」の見出しで、中之郷村に於いては時局不況対策として先に自力更生組合及び負債整理組合等を組織し経済更生運動に活躍中であるが、さらに憂村の志士相図り禁酒決行に依り更生運動を一層積極化せんとし同士を募集中のところ愈々期熟して山下村長を会長とし大沢政蔵君を副会長とし菊池局長、石堀校長を顧問とせる禁酒同盟会を作る事になり去る1月12日午後7時より中之郷青年会館に於いてその発会式を盛大に挙行した。式は先ず山下村長の開会の辞に始まり一同起立国歌合唱後多数の祝辞あり。引き続き山下村長議長となり議事に入り会則の審議及び役員の選挙を執行尚会員は極力会員募集加盟に勤める事を議決し細谷氏の激励演説等あって午後11時閉会したが同村は本会の出生に因り愈々経済更生に一段と拍車をかけるものと期待さる」(南海タイムス)。4月、禁酒運動50周年を祝って日本国民禁酒同盟が第16回大会を横浜開港記念会館で開催。【米国】6月10日、ビル・ウイルソン、ロバート・スミスと出会う。AAの創始(但し、この時にはAAとは呼ばれていない。)8月10日、「学生排酒連盟一行来島炎暑を外に連日奮闘す」の見出しで、去る18日日本学生排酒連盟一行6名第3回の排酒運動のため(八丈島に)来島した。中2名は昨夜小笠原島出発残る4名と別働隊2名を加えてそれに救世軍大尉奥山茂氏(大賀郷村出身)及び19日到着の後班2名を加えて以上9名が29日来島の国民禁酒同盟総主事小塩完次氏の講演に先立って各村の有力者と打ち合わせ、小学生中心の「お話会」を巡村実施いずれも盛会を極め、島で最初の紙芝居利用講話、或るいわ酒害模型展、宣伝ポスター展等各村小学校職員の後援を得て島民に多大な感銘を与えた。25日より愈々小塩主事を主班とする各村巡回講演は開始され29日まで連日連夜酷暑を征服しつつ島民排酒思想普及及び禁酒宣伝の為に奮闘された。」(南海タイムス)、8月青木庄蔵が奥山某を同伴して北海道へ禁酒講演旅行。12月1日、山室軍平が横浜開港記念館で救世軍渡来40周年の夕べで講演。
1936年(昭和11)2月26日~29日、陸軍皇道派の影響を受けた青年将校等がクーデターを図り、斉藤実内務大臣、高橋是清蔵相等を殺害。未遂に終わった事件(2・26事件)6月9日、長尾半平が京城の朝鮮総督府で農林局長と対談中、脳溢血で倒れ同月20日午後10時52分に死去。(享年71歳)葬儀は同月26日青山学院講堂で行われ、会葬者1,500余名、団体など弔辞33通・弔電が1,324通という盛儀であった。8月号の『鉄道青年』(鉄道青年会本部発行)に「故長尾半平先生追悼号」が掲載された。 この年、青木庄蔵は私財を投じてアルコール問題を科学的に対応するため財団法人青木匡済財団を設立。11月10日、青木庄蔵夫妻が天皇皇后両陛下より新宿御苑における観菊会に招待され出席。
1937年(昭和12)5月に財団法人岡山禁酒会館が「財団法人岡山禁酒会館の過去と現在」冊子を発行。生江孝之が古希を迎え、東京禁酒会長を退き、村上幸多が就任。7月7日、盧溝橋事件発生・日中戦争始まる。この年、青木庄蔵がコペンハーゲンの世界禁酒大会出席、それに伴い欧米視察。
1938年(昭和13)7月23日、「学生排酒連盟を爆撃す」の見出しで、八丈島での来島7回に及ぶ学生排酒連盟の活動に批判的な意見を掲載(南海タイムス)投稿者は阿呆太郎恐らく偽名であろう。「学生は所謂親の脛かじり」「都会に住んでいる学生諸君に酒にかわるべき娯楽機関がいくらでもある。されば酒等を敢えて飲む必要はないのである」
10月2日、第8回中部日本禁酒連盟総会が大垣市青年会館(大垣市外側町)にて開催。
1939年(昭和14)4月2日、安達兼人(後、中国断酒修養会初代会長)広島県神石(じんせき)郡にて伊三太・コトヨの四男として誕生。4月、【米国】にて『アルコホーリクス・アノニマス』(ビック・ブック)初版発行。9月1日第二次世界大戦勃発:ドイツ軍ポーランドに侵攻。ノモンハン事件は、5月から同年9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した日ソ両軍の国境紛争事件。9月7日、安藤太郎(初代日本禁酒同盟理事長)死去。この年、日本国民禁酒同盟は満蒙開拓団を慰問訪問。
1940年(昭和15)3月13日、救世軍山室軍平中将召天。同年夏、救世軍は英国救世軍本営に属していたため、情報を英国に漏洩するのではないかと懸念した軍部は東京憲兵隊をして、神田本営を家宅捜索、植村益蔵(大佐)救世軍日本司令官、書記長官ほか五、六名を拘束した。そのため英国とは一切の関係を絶つことになった。救世軍弾圧。
この年、紀元2600年記念 第21回日本国民禁酒同盟大会が東京・青山の日本青年館にて開催。記念事業の一環として藤原暁三執筆・小野清一郎・諸岡存監修『日本禁酒史』を発行。
1941年(昭和16)6月、横須賀海海軍病院の野比(のび)分院(後、国立久里浜病院)創立。9月1日、「酒やめて食糧を守れ!第18回「酒なし日」毎日々々飲む酒は600万食分の米と麦」大正13年以来関東大震災記念事業としている酒なし日運動は、今年は「酒やめて食糧を守れ!」をスローガンに臨戦態勢下の一億国民に向かって強く展開されることとなった。12月8日、日本軍がハワイ真珠湾攻撃。英米に戦争布告し太平洋戦争に突入。
1942(昭和17)中沢寅吉(禁酒家)薬舗が高知市に進出し、営業を開始。(天保3年、中澤復冶が高知の香美郡岸本村で創業)
1943年(昭和18)この年、住友忠隈(すみとも・ただくま)炭鉱(福岡県嘉穂郡穂波町忠隈)にて第24回日本国民禁酒同盟大会開催。炭鉱の規律保持と増産の国策に沿った活動であった。
1945年(昭和20)3月10日、東京大空襲。5月29日、横浜大空襲。6月29日、岡山大空襲。8月14日、御前会議でポツダム宣言を受諾決定。15日、戦争終結の詔書をラジオ放送。日本国が連合国軍に敗戦。(岡山禁酒会館は岡山大空襲でも奇跡的に焼失を免れた。(作家永井荷風は、岡山の大空襲を経験。敗戦を岡山で迎える。)12月、海軍病院野比分院が厚生省に移管、国立久里浜病院として発足。
1946年(昭和21)、岡山禁酒会館新に改装(玉井伊三郎設計)された。12月27日、帝国議会が第九十二回国会で終焉し、貴族院が参議院となり、参議院の第一次立候補者として松村春繁の名前が上がった。立候補時の彼は日本労働組合総同盟県連副会長、日本社会党県連書記長、高知県地方労働委員、高知県教員適格審査委員会委員、高知県経済復興会議常任委員長の要職にあった。
1947年(昭和22)、4月国立久里浜病院が国立療養所久里浜病院と改称。
1950年(昭和25)、6月25日、【朝鮮半島】朝鮮戦争が勃発。この戦争で日本は1952年までの3年間に在韓・在日米軍から直接物資・サービスの発注を受けた総額10億ドルとも言われ「朝鮮特需」と呼ばれた。9月1日、山室武甫が日本禁酒同盟機関紙『禁酒新聞』第294号紙上でAAを「元酔漢無名会」と紹介。この年、下司孝麿(げし・たかまろ、松村春茂の主治医)医師が慢性アルコール中毒賞の薬物療法(エメチンとアンタビュース)を発表、地方紙やNHKで喧伝された。
1951年(昭和26)9月8日、【米国】サンフランシスコ市でサンフランシスコ講和条約調印。この年、下司医師は東京都の慈恵医科大学における日本精神神経学会の講演で、「薬物療法のほかに精神療法が加味されるべきである」と発表。薬物療法のみでは再飲酒者が多かった事実が背景に有る。日本禁酒同盟総会 根本正生誕100年祭。
1952年(昭和27)2月、(財)日本禁酒同盟は大辻君子を戦後初の女性禁酒使節として米国視察へ出発させた。羽田→ハワイ→ロサンゼルス→ミルウォーキー→エヴァンストン→ワシントン→羽田。4月4日、日本禁酒同盟総会が中央会堂にて開催。4月28日、サンフランシスコ講和条約発効。7月、山室武甫はエール大学の奨学金200ドルを得て、同大学の第10回酒精研究夏期学校(全4週間)に学び、直接に米国のAAプログラムを知り、多くの米国AAメンバーと交流した。この年、ボブBが名古屋の米空軍病院でAAのメッセージ活動を開始。この頃に東京ではすでに在日外国人10名ほどでAAミーティングが行われていて、ボブBも上京時には参加していた。
1953年(昭和28)7月27日、朝鮮戦争が休戦。9月1日、「沖縄にまた禁酒村」(国頭村楚州地区)禁酒新聞に掲載。9月12日、(財)日本禁酒同盟内(東京都文京区春木町2-10)に姉妹団体としてAA日本本部「断酒友の会」が発足。同月、小塩完次が沖縄禁酒講演旅行へ青少年の健全育成が目的で沖縄・本島の中学・高校を巡回講演して、10月に帰京。10月14日、沖縄タイムスに小塩完次「沖縄を世界の禁酒島に」記事が掲載。
1955年(昭和30)4月、松村春繁は後免町町議員選挙に立候補して最下位4票で落選。アルコール依存症者松村春繁の「底着き」であった。この年頃より下司孝麿医師はエメチンを購入していた中沢薬業の中沢寅吉(禁酒家)社長より「禁酒新聞」を毎月寄贈され、初めてAAや断酒会の存在を知る。
1956年(昭和31)【独国】ミュンヘンにてエミール・クレぺリン(近代精神医学の父)の生誕100年記念大会が開催され、日本から内村祐之(うちむら・ゆうし、内村鑑三子息)東大精神科教授、森村武庫川病院院長が参加し、デンマークの禁酒運動(リング・イン・リング=手に手をとって)の情報をもたらす。武庫川病院の吉田優医師もアルコール依存症の集団精神療法を試みたいと思い「あなたはお酒をやめられる」冊子の中のAA活動に注目。10月末、武庫川病院(現、兵庫県西宮市)内でアルコール依存症の患者で退院した者、その家族を中心に吉田医師等もオブザーバー参加して毎週1回AAミーティングを開始。武庫川病院では森村院長の恩師内村祐之(前出)の要請で抗酒剤(ノックビン、アンタビュース)の追試が行われていた。(内村祐之が大正10年に久須美美代子と結婚する時の仲人は、父鑑三の札幌農学校の先輩伊藤一隆であった。)この抗酒剤が新聞で報道され、武庫川病院には毎日10名以上の新患が受診し岡山県、福井県からも来院した。12月27日、田中道雄が司祭叙階。この年。経済企画庁は経済白書に「もはや戦後ではない。」と記述。
1957年(昭和32)ボブB(前出)は西宮に近い神戸へ移り新しいメンバーのランスと共に積極的にAA活動を開始。ボブB、ランスは日本人医師(吉田優医師?)と知り合い武庫川病院内のAAミーティングに参加。これ以後、大阪支部、神戸支部、尼崎支部などが発足し、AA「12の階梯(ステップ)」の翻訳もされていたという。12月、(財)日本禁酒同盟内に仮寓していた「断酒友の会」が、同盟で酒害相談を担当していた上堀内秀雄(断酒友の会常任世話人)と共に独立し、後に埼玉県志木市に本部を置いた。この年、片山哲(元総理)が日本禁酒同盟第8代理事長に就任。
1958年(昭和33)断酒友の会の機関紙「断酒の友」1月1日付第一号で上堀内秀雄「ごあいさつ 私儀旧ろう突如、日本禁酒同盟を辞任いたしました。戦後十余年灰燼の中から同盟再建のため私も必死でした。」との記事あり。1月5日、日本禁酒同盟新年会が片山哲理事長・来馬副理事長・小塩理事ほか計10名で麻布永平寺東京別院長谷寺において開催。6月18日下司神経科設立。(財)日本禁酒同盟小塩完次専務理事が中沢薬業中沢社長の依頼で、高知の刑務所で禁酒講演をなす。下司孝麿(下司神経科院長)は小塩完次に民間でも講演をしてくれるように依頼した、その聴衆の中に松村春繁と小原寿雄がいた。11月25日、下司神経科応接室で高知県断酒新生会がこの二人で結成され、松村春繁が初代会長に就任。12月5日、東京断酒新生会(委員長大久保勇)発足。この頃、関東および近県では各地の断酒新生会が、日本禁酒同盟の指導のもとに祖織化・ブロック化された。下司医師は上京の際には、東京断酒新生会の銀座定例会(40名から50名が参加)に出席。池袋の鈴木清司の自宅例会で大野徹(後、全日本断酒連盟理事長)夫妻と会い知る。
1959年(昭和34)、メリノール宣教会のジャン・ミニー神父が宣教師として来日。5月1日、山室武甫「日本に於けるAA運動の沿革」が禁酒新聞に掲載。夏、中沢薬業中沢社長の招待で元総理片山哲(日本禁酒同盟第8代理事長)高知を来訪、断酒会例会に出席。下司病院が高知市に設立。7月、成増厚生病院が精神科57床にて開設。
1960年(昭和35)12月9日、東京に大野卓子(大野徹婦人)を会長とする白菊禁酒婦人会(現在のNPO東京断酒新生会・白菊家族会)が発足。
1961年(昭和36)、児玉正孝はアルコール依存症で15年間に精神病院入退院20数回を繰り返し、最後の入院を迎える。6月1日、超党派の国会議員(市川房枝ほか)により提出された法案「酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律」が可決成立。付帯決議「酩酊者の保護、収容、治療等の施設を整備、拡充するためにできうる限り速やかに予算措置を講ずること」。→1963年、国立療養所久里浜病院にアルコール病棟が新設へ。9月9日朝、児玉正孝が日本禁酒同盟八丈島断酒診療所に入所。11月12日、『新聞断酒』下司病院が発刊(後、全断連の機関紙的役割を担った。)創刊号には「祝 高知県断酒新生会結成3周年記念大会」とある。
1962年(昭和37)1月7日、児玉正孝が八丈島断酒診療所の実状を東京の日本禁酒同盟幹部会で報告。児玉正孝、日本禁酒同盟を脱退。4月1日、禁酒新聞第432号で「日本禁酒同盟が八丈島に断酒診療所アル中、酒乱などを治す」との記事あり。同日、東京断酒新生会が日本禁酒同盟より独立。7月28日、高知アルコール問題研究所(所長下司孝麿、以後、高知アル研と略記)が発足。8月11日東京白菊禁酒婦人会の視察団(団長大野卓子)、ほか9名が高知を訪問、高知県断酒新生会第90回例会に出席。これを機に高知県に「酒から夫を守る婦人の会」が結成された。8月20日、『新聞断酒』第8号より発行所が高知アル研に変更。11月、鷲山純一が八丈島断酒診療所入所のため八重根港で児玉正孝の出迎いを受け、四番目の入所者となる。
1963年(昭和38)8月、鷲山純一、八丈島断酒診療所より帰宅。8月30日、社団法人日本酒害防止協会(代表理事一万田尚登、常任理事・事務局長森崎行三)が著名政財界人(岸信介、石井光次郎、石田博英等80数名)を帝国ホテルに集め発足。10月15日、国立療養所久里浜病院に国内初のアルコール依存症治療専門の病棟が新設された。10月18日断酒友の会機関紙「断酒の友」第57号「断酒精神普及を図れ法務大臣賀屋興宣」の記事あり。11月10日、高知県断酒新生会第5周年大会と併せて全日本断酒連盟(全断連)結成大会をはりまや橋の土電会館で開催。12月13日。末永豊紀は松尾病院入院中にテレビで東京断酒新生会の活動を知り、断酒会結成を決意。松尾院長の後押しもあり、仲間5名と「北九州禁酒友の会」(会長末永豊紀)を発足。⑮この年、松村春繁が下司孝麿医師の紹介状を持参し国立療養所久里浜病院の堀内秀(ほりうち・しげる、ペンネームなだいなだ)医師を訪問。⑮
1964年(昭和39)3月1日、鷲山純一の奔走で静岡断酒互助会が再建(会員6名)。3月8日、第一回例会を鷲山純一宅にて開催(会員5名、家族6名、ゲスト1名計12名)。3月29日、東京YMCAで全断連第一回理事会が行われ。昭和39年度運動方針等可決、国際アルコール対策総局に加盟。4月5日、高知断酒新生会は断酒子供会を発足。6月、児玉正孝が来静し同会に入会。8月25日、機関紙「あしたば」創刊。10月22日、全断連初代会長松村春繁来静し、同日付で静岡断酒互助会が全断連に加盟。夏、高知アル研所員川村効子(かわむら・こうこ 高知県知事公選制初代、第3代川村和喜冶・令嬢)がニューヨークのAA本部を訪ね、断酒会がAAの日本支部となる交渉したが、①匿名でないこと②会費を徴収すること③会長制であることなど、システムの違いにより拒否された。12月20日、静岡断酒互助会主催の第1回「酒なし忘年会」(34名参加)を開催。この年、東海道新幹線が開業され、東京オリンピックが10月10日~24日の間開催された。
1965年(昭和40)2月21日、第3回全断連理事会が静岡市中央公民館で開催(東京・高知・静岡・徳島)。4月1日、静岡県断酒互助会の運営による八丈島断酒道場が大賀郷沖山温和(おきやま・やすかず)宅に開設(昭和44年4月和歌山に移転)。5月5日、神奈川県断酒新生会結成式が川崎市労働会館で開催され、国立療養所久里浜病院から河野弘明・堀内秀医師がマイクロバスで入院患者24名と共に参加。11月11日、下司孝麿高知アル研所長が八丈島断酒道場を訪問。11月14日、第2回全断連全国(高知)大会が高知土電会館にて開催(参加者300名)され、来日中のオーストラリアの心理学者マーガレット・サージェント女史が「オーストラリアのアルコール中毒患者に関する私の研究」と題して特別講演を行う。11月23日、室蘭市立病院祝津分院の斎藤義寛の指導のもと北海道で初めての断酒会、「室蘭断酒会」が発足し、同日全断連に加盟。12月24日、東京断酒新生会12周年記念例会が文京区役所会議室で開催。この年夏、禁酒会館の講演会で山方辰三郎(後、岡山断酒新生会初代会長)と松村春繁が知り合う。「禁酒会館方式では救われない、岡山にも高知方式の断酒断酒会をつくったらどうか」と松村に勧められる。
1966年(昭和41)1月13日、児玉正孝著『わが脱出の記』(機関紙「あしたば」16回連載)を勝倉正二の手で製本され発行。1月29日、岡山労働会館で岡山断酒新生会(会長山方辰三郎)が発会。6月12日、松村春繁全断連会長の入院にともない臨時理事会を断酒学校開催中の吸江寺(高知)で開催し、新会長は選ばず大野徹東京断酒新生会長が代行の任当ることとなった。11月13日、第3回全断連全国(東京)大会が神田の学士会館で開催(参加者400名)。以後は全国主要都市にて開催されることとなった。この年、田中道雄神父、小教区の主任司祭であったころよりアルコール依存症の症状がひどくなる。広島断酒ふたば会創立。ビートルズ来日。
1967年(昭和42)8月25日、中村公彦の父中村弥次郎は、息子が久里浜病院退院する時に、なだ いなだ医師より木島病院にアルコールセンターを設立。断酒会結成の準備を進めていた米田栄之医師を紹介されて訪問。9月16日、木島病院内にて断酒会設立準備会。11月初旬、武庫川AAは大阪、尼崎、神戸、西宮支部で10周年の総会を新武庫川病院の集会場で開催、100名程の参加者があった。11月10日、友綱断酒会発足。名誉会長児玉正孝、会長中村公彦、顧問米田栄之(木島病院長)、森イツヨ(木島病院理事長)、中村弥次郎(中村科学社長)。この年、大辻君子、父政三(禁酒家)と共に東京→モスクワ→レニングラード→フィンランド→スエーデン→コペンハーゲン→ロンドン→日本。スエーデンではアンスワール社(禁酒者用自動車保険会社)を訪問。後、AnsvarJapan(アンスワール相互保険会社)を創立し、大辻君子も役員となる。
1968年(昭和43)3月24日、静岡県断酒互助会主催の第1回結婚式(新郎芹沢達之、新婦鈴江)が静岡駅前クーポール別館3階ホールにて開催。断酒結婚式に会員・来賓(大野徹全断連会長代行を含む)百名を超える参加者があった。この年、大辻君子は父政三(禁酒家)と共に日本→ハートフォード→ワシントン→ニューヨーク→日本。ワシントンでは第28回世界アルコール問題アルコール中毒に関する世界会議に日本代表として出席。
1969年(昭和44)2月ピーター神父が初めての精神病院入院。以後6回の精神病院の入退院を繰り返す。大阪司教区からトラピスト修道院へ送られるが飲酒がやまず逃亡し大阪へ戻る。4月、和歌山県日高郡由良町白崎に和歌山断酒道場が中村弥次郎の私財により建設され、初代道場主に児玉正孝が就任。5月15日、和歌山断酒道場に古屋二郎入所(4番目の入所者)。5月4日、東京断酒修養会が文京区役所別館にて発会。6月、増大するアルコール依存症者に対処するため日本禁酒同盟を母体に禁酒・断酒諸団体を統合し、日本対アルコール協会(会長・片山哲)を設立したが、実際に活動したのは日本禁酒同盟・全断連・酒なし運転協会の3団体のみで短命に終わった。8月15日、古谷二郎が和歌山断酒道場を退所(2番目の修了者)。入所中から児玉道場主の勧めで古谷夫妻・両親が阪和断酒会友綱(現、和歌山県断酒連合会)に入会。11月、大貫純一郎(後、栃木県断酒ホトトギス会長)が和歌山断酒道場に入所、児玉正孝の薫陶を受ける。この年、日本禁酒同盟は日本対アルコール協会と改称、「禁酒新聞」も「酒なし新聞」に改称。
1970年(昭和45)1月30日、松村春繁(高知県断酒新生会初代会長)脳軟化症で下司病院にて死去。3月、大貫純一郎が和歌山断酒道場を退所。4月2日、栃木県断酒ホトトギス会(初代会長工藤元宏)が宇都宮市妙正寺にて発会式を挙行。4月14日、和歌山断酒道場1周年記念大会が開催され全断連大野会長鷲山副会長等が出席。9月、古谷二郎は和歌山断酒道場を退所してからは100日ほど断酒していたが、近鉄特急車内で再飲酒。和歌山断酒道場に2回目の入所。5月、『文藝春秋』5月号に、なだいなだ(精神科医・作家)の「ある‘アル中’の栄光の死」が掲載された。8月1日、全断連が厚生省(現、厚労省)から社団法人の認可受けた。8月23日、日本アルコール医学会の呼びかけにより、禁酒関連10団体(日本アルコール医学会、日本対アルコール協会、矯風会、救世軍、アンスワール、全断連、禁酒禁煙協会、酒害防止協会、酒の害から家庭を守る会、国際グッドテンプラーズ)により日本アルコール問題連絡協議会(片山哲名誉会長)が発足。9月15日、全断連第7回全国(北九州)大会が北九州市民会館にて松村春繁初代会長の遺影を掲げて開催(参加者1217名)。11月1日、全断連主催の第13回断酒学校が高知市五台山吸江寺禅寺で開校。11月22日、横浜市磯子公会堂にて神奈川県断酒連合会結成大会開催(参加者250名)。11月23日、阪和断酒会3周年大会が和歌山商工会議所で開催。12月23日、財団法人日本対アルコール協会は財団法人酒害予防協会と改称。この年、大阪万博がテーマ「人類の進歩と調和」(3月15日~9月15日)開催。
1971年(昭和46)、2月、古谷二郎2回目の和歌山断酒道場を退所。この後、古谷は断酒生活に入る。4月1日、吉田大助、古谷に加え新拓造が阪和断酒会友綱に入会この3名で阪和断酒会友綱奈良支部が結成された。後に米田栄之医師の下でソーシャルワーカーをしていた勝井一太が奈良県橿原市で食堂を経営することとなり断酒会に入会。金森要を加え奈良県断酒会の基礎が形成されてくる。4月20日、栃木県断酒ホトトギス会1周年記念式を栃木県保健福祉会館で挙行。11月20日、関谷圭一は吉田病院退院後、大阪断酒会(現、大阪府断酒会)を紹介してもらう。「断酒会にいけば一杯飲ましてあげる」と妻に言われ、長願寺の例会に出席。そこで酒を飲まずに元気でやっている先輩の姿をみて断酒を決意。大阪断酒会に入会。この年、酒害予防協会第9代理事長に山中吾郎(衆議院議員)、機関紙「酒なし新聞」の名称を「酒害予防新聞」に改称。【米国】AAの共同創始者、ビル・ウイルソンが死去。
1972年(昭和47)1月10日、三重断酒新生会結成大会が津市の吉田山会館で開催。前年、県立高茶屋病院(現、県立こころの医療センター)を退院した一人のアルコール依存症者が自殺したのをきっかけに、「断酒会を作ろう」という機運が盛り上がり、高知出身の奥宮医師が高知県に派遣され、下司病院院長下司孝麿院長より断酒会作りの指導を受ける。又大阪断酒会の応援も大きな力となった。発足して1年間は、会員は数名で役員も置かず、県立高茶屋病院の医師・職員の主導で運営されていた。1月24日、矯風会第二会館にて厚生省公衆衛生局滝沢局長以下5名とアルコール問題連絡協議会加盟10団体から2名ずつ出席し国会議員山中吾郎(第9代日本禁酒同盟理事長)が挨拶し意見交換が行われた。5月15日、沖縄返還。7月2日、阪和断酒会友綱奈良支部のメンバー5名と関谷圭一が合流し、阪和断酒会友綱から分離独立して奈良県断酒会を大淀町越部公民館で会員6名から発足。全断連に加盟し、各個人宅で持ち回りとし毎日曜日に例会を開いていた。初代会長は勝井一太、副会長は吉田大介、事務局長は古谷二郎、会員は新拓造、金森要,関谷圭一であった。8月『新聞断酒』は全断連高知分室の廃止とともに118号で廃刊。秋、武庫川AAの総会も院外の勤労会館を会場とすることになり、各支部は解散し西宮支部1ヶ所に結集した。11月18日、日本アルコール問題連絡協議会主催の未成年者飲酒禁止法制定50周年記念集会が有楽町読売ホールで開催され小塩完次が講演。この年、財団法人酒害予防協会が財団法人日本禁酒同盟に改称、それに伴い機関紙酒害予防新聞も禁酒新聞と改称。事務局も武蔵野市西久保に移転。
1973年(昭和48)1月10日、三重断酒新生会が会誌「絆創刊号」を1千部発行と同月21日に結成1周年記念大会を津市の福祉会館で開催。4月2日、奈良県断酒会役員改選し新会長に古谷二郎、事務局長に関谷圭一が就任。4月、熱海断酒葵会(会長:新妻利雄)発足、その後の発展は熱海・伊東・稲取・下田の伊豆一円ほか神奈川県・湯河原にまで及んだ。7月1日、奈良県断酒会1周年記念大会を奈良市三笠公民館で開催併せて機関紙「せいりゅう」創刊号を発行。7月15日、三重県断酒新生会南勢支部成大会を伊勢市の尾崎記念館で開催。下司孝麿(下司病院長)が第25回保健文化賞受賞。この年、横須賀基地の米海軍がARU((アルコールリハビリテーションユニット)設立。スタッフのDANが、ARUのメンバーを日本のAAに連れ出すようになった。
1974年(昭和49)1月20日、三重断酒新生会が結成2周年記念大会を津市市町村会館で開催。同年、3月17日北勢支部が四日市市塩浜の御園神社にて結成大会を開催。2月、吉田優医師(前出)は東加古川病院に転任して院内AA家族会を開始。3月11日、静岡県断酒会創立10周年記念大会開催(静岡市公会堂・参加者9百余名)。4月1日、奈良県断酒会に春日支部、橿原支部が発足(支部制の始まり)。5月19日、断酒の家診療所の鍬入れ式挙行(4名程度の単身者居住用施設も併設されていたようである。)、7月14日、奈良県断酒会2周年記念大会を奈良市農協会館にて開催併せて「せいりゅう」第2号発行。この時、会員数30世帯であった。9月4日、静岡県断酒会事務所開所(静岡市瀬名73-4、県結核予防センター内)。11月29日、再来日したジャン・ミニー神父と田中道雄神父(ピーター)が大阪で出会う。田中神父45歳の誕生日であった。12月11日、大貫純一郎が病没(享年42歳)。12月24日、三重断酒新生会が社団法人として認可された。この年、大宮にメリノール・レジデンス(通称。大宮ハウス)が置かれた。
1975年(昭和50)1月19日、社団法人三重断酒新生会断酒の家診療所落成式、結成3周年記念大会が藤方公民館で開催。2月1日、断酒の家診療所診察が開始。3月、日本語でのステップ・ミーティングをカトリック蒲田教会で開始。これをAA日本の創始とする。(最初はTODAYクラブと称していた。)4月1日、奈良県断酒会の春日支部が奈良支部と天理・郡山支部に分かれる。5月、上尾断酒修養会(細江会長)が家族会員を含め30名で埼玉県上尾市尾山台団地の集会室で発足。後、桶川支部を置く。7月13日、奈良県断酒会3周年記念大会を奈良市農協会館にて開催併せて「せいりゅう」第3号発行。8月6日、三嬉松支部が松阪市吉仲氏宅にて結成。
1976年(昭和51)3月6日、社団法人三重断酒新生会が断酒の家で結成4周年記念式典を挙行。又9月15日、会誌「絆」第二集が発行された。7月25日、奈良県断酒会4周年記念大会を奈良市農協会館にて開催併せて「せいりゅう」第4号発行。8月、岡山禁酒会館で日本禁酒同盟の小塩完次と安達兼人(後、中国断酒修養会会長)が出会う。9月、AA八王子グループが発足し八王子カトリック教会を会場として週2回ミーティングを開始。
1977年(昭和52)1月29日、中国断酒修養会(会員3名)が熱海断酒葵会の新妻夫妻の仲介で財団法人日本禁酒同盟に加盟。1月30日、社団法人三重断酒新生会が津市中央公民館で結成4周年記念大会。(同2月15日、会誌「絆」第二集が発行された。)2月1日、救世軍のアルコール依存症者の社会復帰施設「自省館」が都認可を受けて施設は完成したが、当初は近隣住民の理解が得られず。アルコール依存症者の入居が遅れた。2月17日、中国断酒修養会が岡山・広島で旗揚げ。2月26日、日本学生排酒連盟が青学会館で創立50周年記念会を開催。OB・OGが多数参加された。4月1日、静岡県断酒会が社団法人の認可を受けた。7月24日、近畿ブロック(奈良)大会並びに5周年記念大会を奈良県文化会館にて併催併せて「せいりゅう」第5号を発行。この時、奈良県より丸山環境部長が出席700名の出席者を見て断酒会を見直し、これを機会に奈良県からの補助金や奈良保健所での酒害相談が行われるようになった。この年、上村千賀志(うえむら・ちかし 後、第2代和歌山断酒道場長)が和歌山断酒道場へ入所。
1978年(昭和53)4月30日、中国断酒修養会の玉島断酒誠友会、倉敷仁風荘病院断酒会に次ぐ3番目の支部として倉敷断酒睦会(支部長佐守正吾、世話人湯田照男)が発足。5月30日。片山哲が神奈川県藤沢市にて死去(90才)。6月、大宮ハウス(中間施設)を母体に、AA方式で初めての本格的アルコール依存症者のためのハーフウェイ・ハウスみのわマック(旧三ノ輪マック・東日暮里)設立。7月、大宮ハウス閉鎖。 7月23日、奈良県断酒会6周年記念大会が奈良市商工会館にて開催併せて「せいりゅう」第6号を発行。9月3日、中国断酒修養会:寄島断酒親睦会(寄島支部)が寄島福祉センターで結成集会。8月20日、中国断酒修養会:玉島支部1周年で倉敷西保健所長・医学博士小寺和子(矯風会員)が講演。当時、中国断酒修養会は会長安達兼人、副会長佐守正吾・吉田実、婦人部長安達典子、理事田中義男・土屋和雄という陣容であった。この年、東北会病院(仙台)がアルコール病室を設置。
1979年(昭和54)1月28日(日)中国断酒修養会2周年記念大会:記念講演「アルコ-ル中毒からの脱出」
講師竹内達夫(順天堂大学医学博士・日本禁酒同盟顧問)金光町公民館で開催。2月4日、奈良県断酒会第1回研
修会(1泊)が奈良県公会堂にて開催。4月29日、中国断酒修養会:倉敷断酒睦会1周年記念集会・特別講演講「人
の道」御国幼稚園理事長井上円戒師。7月10日(火)、中国断酒修養会が岡山禁酒会館で酒害相談を始める。7月29日、奈良県断酒会7周年記念大会が奈良県公会堂にて開催併せて「せいりゅう」第7号を発行。8月1日、ピーター田中訳編『無名のアルコール中毒者たち』(日本語版・初版)が日本AA.jsoより発刊された。9月6日、
吉備郡真備町に中国断酒修養会の真備町グループが真備町公館で発足。10月、国立療養所久里浜病院で厚生省主
崔のアルコール中毒臨床医研修会(1週間)が開催。
1980年(昭和55)2月3日、奈良県断酒会第2回研修会(1泊)が奈良県公会堂にて開催。2月15日,おかやまの郷土雑誌『月刊岡山』No.161に「酒害相談窓口県下全域に広がる」が掲載された。4月、和歌山断酒道場主児玉正孝が老人性うつ病を発症。後任に上村千賀志が二代目道場長を継承。6月12日、大平正芳首相急死、内閣総辞職。6月15日、中国断酒修養会:児島支部友愛会が1周年記念大会を児島労働会館で開催。6月23日、ブース記念病院にて山室武甫召天。7月27日、奈良県断酒会8周年記念大会が奈良県公会堂にて開催併せて「せいりゅう」第8号を発行。
1981年(昭和56年)2月3日、奈良県断酒会第3回研修会(1泊)が大和郡山市福祉会館にて開催。8月2日、奈良県断酒会9周年記念大会が奈良県公会堂にて開催併せて「せいりゅう」第9号を発行。8月9日、安達兼人(中国断酒修養会長)が金光町議員選で上位当選。10月6日、東京新宿区信濃町のマンションの一室にAAオフィス(JSO)がスタート。11月29日、財団法人日本禁酒同盟・中国断酒修養会(安達兼人会長)が結成5周年記念大会を金光町公民館で開催、併せて小冊子「5年の歩み」を発行。この年、河野裕明が国立療養所久里浜病院の院長に就任。小冊子「播磨の灯び」弟4号(小塩完次寄稿)財団法人日本禁酒同盟:西播磨断酒同志会発行。同会結成3周年記念大会を竜野市消防会館にて開催。この年、東北会病院(前出)がアルコール病棟(37床)を設置。
1982年(昭和57年)2月1日、ピーター田中訳編『無名のアルコール中毒者たち』(日本語版)が日本AA.jsoより再刊(第2刷)された。2月7日、奈良県断酒会第4回研修会(1泊)が大和郡山市福祉会館にて開催。4月1日、国際グッドテンプラーズの国際会長スベン・エルムグレン来日。同月7日、同氏による講演等の「アルコール問題セミナー」を青学会館で開催(国際グッドテンプラーズ東京部会・日本禁酒同盟・矯風会・救世軍・日本禁酒禁煙協会・共同主催)。6月1日、熱海断酒葵会機関紙『あおい』第6号で休刊。この年、山口県宇部市に高嶺病院(アルコール依存症治療専門)が設立。この病院は当初よりAAプログラムを重視、特別AAミーティングや勉強会を行った。7月11日、AA第1回麻布ビギナース・ステップセミナーを開催。7月25日、奈良県断酒会10周年記念大会が奈良県橿原文化会館にて開催併せて「せいりゅう」第10号を発行。8月8日、日本禁酒同盟断酒修養会の夏期研修会(「アルコール依存」上尾断酒修養会・細江芳久、「酒害相談について」城南断酒修養会・佐藤健「精神衛生センターの酒害相談事業について」中央断酒修養会・橋場良造)が北区会館で開催。9月9日~10日、AA第4回長崎ステップセミナーを長崎市上野町カトリックセンターで開催。9月15日、全断連近畿ブロックソフトボール大会(奈良)が御所市民グラウンドで開催。9月21日、AA鹿児島グループ発足、会場は森口病院内のプレハブで当初のメンバー13名。この年、AA尾道グループが発足。札幌マックが開設。
1983年(昭和58)1月3日、児玉正孝が広島第一病院で、生前「ありがとう、ありがとう」の言葉残し、急性心不全で病没(享年68歳)であった。1月9日広島市内のある教会で、全断連鷲山副理事長ほかが出席して告別式が行われた。2月12日、奈良県断酒会第5回研修会(1泊)が大和郡山市青少年自然の家にて開催。2月26日、東北会病院(仙台)の医療関係者と関東のAAメンバーの協力によりAA柏木グループが発足し東北地方におけるAAのスタートとなった。4月、新妻利雄(60歳)熱海断酒葵会相談役により酒害者のリハビリのための施設「伊豆断酒葵の家・清新寮」の建設のための趣意書(小塩完次・推薦状含む)が発行される。5月29日、中国断酒修養会:倉敷断酒睦会5周年記念大会、記念講演「人間の生きる道」講師松井円戒(高野山地蔵院住職・御国幼稚園園長)倉敷市民会館にて開催。7月、AA鹿児島グループは森口病院内のプレハブから移転。7月10日、奈良県断酒会11周年記念大会が天理市中央公民館にて開催併せて「せいりゅう」第11号を発行。7月20日、森口病院内のプレハブに入院患者のため下田グループが発足。7月23日、奈良県断酒会はブロック制を導入。若草ブロック(奈良中央・西奈良・生駒・郡山・天理)、飛鳥ブロック(橿原・葛城・吉野・下市・桜井・榛原地区)。8月7日、イッキ飲ませの被害者家族等がアルコール問題全国市民協会(以後、ASKと略す)を設立。8月21日、日本禁酒同盟断酒修養会の夏期研修会(「機能集団としての断酒会」上尾断酒修養会・細江芳久、「断酒継続28則」中央断酒修養会・橋場良造、城南断酒修養会・佐藤健)が赤羽会館で開催。12月11日、日本禁酒同盟中国断酒修養会「七年の歩み」を発行。
1984年(昭和59)2月12日、奈良県断酒会第6回研修会(1泊)が天理教十二母屋にて開催。6月17日、中国断酒修養会・児島断酒友愛会5周年記念誌「坂みち」発行。6月、船橋北病院開院(156床)。8月13日、ペテロ田中道雄神父(AAニックネーム:ピーター)召天(享年54歳)。7月29日、奈良県断酒会12周年記念大会が奈良県橿原文化会館にて開催併せて「せいりゅう」第12号を発行。8月19日、日本禁酒同盟断酒修養会の夏期研修会(「断酒会は愛の集団だ」上尾断酒修養会・細江芳久、「アルコール依存症の治療について」城南断酒修養会・佐藤健)が北区会館にて開催。
1985年(昭和60)2月10日、奈良県断酒会第7回研修会(1泊)が天理教十二母屋にて開催。4月17日、沖縄断酒友の会から分離し、那覇断酒会(会長石川信太郎ほか4名)が発足。7月28日、全断連近畿ブロック(奈良)大会並びに13周年記念大会が奈良県橿原文化会館にて開催併せて「せいりゅう」13号発行。創始第98周年『禁酒新聞』(第705号・日本禁酒同盟発行)8月1日号に米寿記念特集:小塩完次「酒のやめ方・やめさせ方」が掲載された。8月12日、日空ジャンボ機が群馬県御巣鷹山中に墜落。日本禁酒同盟断酒修養会が夏期研修会(「仲間がいたから断酒ができたのだ」上尾断酒修養会・細江芳久、「アルコール中毒とその回復」中央断酒修養会・橋場良造、城南断酒修養会・佐藤健)を赤羽会館で開催。8月、奈良県断酒会・若草ブロックに王寺地区例会発足。この年、AAいわきグループが発足。
1986年(昭和61)1月4日、熱海断酒葵会相談役・新妻利雄が死去。1月、奈良県断酒会・若草ブロックに柳本地区例会発足。1月、船橋北病院48床増床計204床。2月、AAインターグループ代表者会議あらため「地区委員会」として発足し、いよいよ関東の地区割りが始まる。2月10日、奈良県断酒会第8回研修会(1泊)が天理教十二母屋にて開催。4月29日(火)、中国断酒修養会の20番目の支部として灘崎断酒朝翠(ちょうすい)会(浅倉義雄会長)が発足、灘崎町七区児童館にて安達兼人が記念講演「アルコール中毒からの脱出」を開催。5月1日、AA福島グループが発足しオープン・ミーティングを開始。同月、熊本・大牟田にAAグループが発足。6月29日、奈良県断酒会14周年記念大会が天理教第2食堂にて開催併せて「せいりゅう」14号発行。8月24日、日本禁酒同盟断酒修養会が赤羽会館で夏期研究会(「アルコール依存 症の予防と治療」中央断酒修養会・橋場良造、「アルコール中毒者の末路」城南断酒修養会・佐藤健、「集団の力-断酒哲学」上尾断酒修養会・細江芳久)を開催。10月奈良県断酒会は連合会組織に編成変えし、奈良県断酒連合会(会長古谷二郎)と改称。奈良市断酒会(猿沢・西奈良・大宮・奈良中央)、奈良若草断酒会(天理・生駒郡山・柳本地区・王寺地区)、南大和断酒会(葛城・宇陀・桜井・吉野・橿原・高田地区・五条地区)奈良若草断酒会の初代会長は西谷清美、事務局長は上本武夫で当時の会員数は27名であった。11月、船橋北病院105床増床(アルコール専門病棟)計309床。この年、春に郡山市にAAあさかのグループ(後に郡山グループと改称)が発足。もともと、いわき、福島、会津では断酒会が主流でAAは異端視され、福島県立医大に入院・通院していた患者は仙台のAA柏木グループに通いメンバーになる者もいたが、地元でAAグループを結成しようとする機運が盛り上がらなかった。この年、ジャン・ミニー神父がポリープの手術のためアメリカに帰国、手術は成功したが、日本には戻らずにコネチカット州ウォーターバレーに居住し、地元のハイスクールで日本語と神学を教えていた。12月、バブル景気始まる。
1987年(昭和62)2月9日(火)、救世軍主催の「AAグループとプログラムの紹介」が熊本県の婦人会館で開催。3月5日、朝日新聞(夕刊)に鈴木美保子「文化の差越す無名現象 内的変化でアルコール脱却」の記事掲載。6月、聖隷三方原病院(浜松市の社会福祉法人立総合病院)の一般科で、「アルコール治療専門ユニット」が開始された。それまでは精神科で行われていたアルコール依存症の治療を一般科で行うという日本初の試みであった。(1991年3月に「経営上の理由」で閉鎖。)7月3日、奈良若草断酒会王寺地区例会が支部に昇格して発足。7月5日、奈良県断酒連合会」(発足)15周年記念大会が大和高田市民会館にて開催併せて「せいりゅう」15号発行。8月23日、日本禁酒同盟断酒修養会が夏期研究会(「集団力動および集団精神療法について」城南断酒修養会佐藤健、「学校教育におけるアルコール問題について」中央断酒修養会橋場良造、「出会いについて」上尾断酒修養会細江芳久)を西久保コミセンにて開催。8月に宇部の高嶺病院の退院者たちがAAグループを結成するべく実行委員会を立ち上げた。9月、AA宇部グループが発足し、メンバー宅で第1回のミーティングを開始した。(山口県下初めてのAAミーティング)9月11月15日、「女性の健康とお酒についての研修会」高知県老人福祉センターにて開催。主催は社団法人全日本断酒連盟、社団法人高知県断酒新生会、土佐断酒会、南四国断酒会、幡多断酒会、後援:高知県・高知市、講師は波田あい子、下司孝麿医師。11月、AA宇部グループは会場をカトリック宇部教会に変更。この年、AA福岡グループが発足。沖縄でAAミーティング開始。
1988年(昭和63年)1月、AA浜松グループ発足。2月22日、AA熊本グループ主催のオープン・スピーカー・ミーティングが県婦人会館(熊本市)にて開催。5月、AA宇部グループが下関にミーティング会場を開設。これが母体となってAA下関グループが発足。(山口県下2番目のグループ)。6月、第1回AA北海道ラウンドアップが開催。7月3日、奈良県断酒連合会16周年記念大会と奈良若草断酒会1周年を併催し郡山社会福祉会館にて開催併せて「せいりゅう」16号発行。8月、阿蘇にて九州地方の初めてのAAラウンドアップが開催。9月24日、AA福岡グループがバースデイ・オープン・ミーティング(グループの誕生日)をカトリック古賀教会(福岡県粕屋郡古賀町)で開催。9月、【豪州】第7回アルコール・薬物問題予防会議がブリスベーンで開催され、日本から宮崎恭一(日本禁酒禁煙会)団長ほか10数名が参加。10月、都立松沢病院にアルコール精神疾患専門病棟が開設。12月4日、AA福岡グループ主催の第1回オープン・スピーカー・ミーティングが八幡東区社会福祉センターにて開催。この年、東京都八王子市の駒木野病院にアルコール専門病棟が完成。糸満清明病院(沖縄県)へAAの病院メッセージが開始。
1989年(昭和64-平成元年)1月7日、昭和天皇崩御、8日、平成天皇践祚。3月、AAひむか(ひむか=宮崎県の古称)グループが発足、宮崎県下で始めてのAAグループ。7月23日~25日、AA九州地域ラウンドアップ・イン・指宿(テーマ「新たな出会い」)が指宿国民休暇村にて開催。7月30日、奈良県断酒連合会17周年記念大会が郡山社会福祉会館にて開催併せて「せいりゅう」17号発行。9月15日、AA福岡グループ主催のパブリック・ミーティング(テーマ「飲まないで生きる」)が千鳥橋病院(福岡市)で開催。10月29日、第7回AA長崎ステップセミナーが長崎市民会館で開催。12月10日、九州アルコール問題医療研究会主催の「アルコール・フォーラム・イン・吉野が里」(佐賀)が開催。この年、AAあさかのグループがAA郡山グループと改称。郡山マックからの参加者もあって少数ではあるがメンバーも定着。
1990年(平成2)2月4日(日)、AA熊本手取グループのオープン・ミーティングが大江市民センターで開催。2月25日、AA大分グループの発足、第1回パブリック・ミーティング(テーマ「飲まないで、生きること」)を大分市のグリーン・カルチャー・センターで開催。3月9日~11日、AA日本15周年が大阪で開催。3月、成増厚生病院アルコール病棟を「東京アルコール医療総合センター」に改称。4月29日、奈良県断酒会連合会、役員改選会長に岡本寛治、事務局長に小池亨を選出。5月5日(祝)、浜松断酒会結成20周年記念大会、テーマ「断酒会の絆より堅く」が、浜松市福祉文化会館にて開催。同日、、AA宇部高嶺グループが5名で発足。6月17日、奈良県断酒連合会18周年記念大会が桜井市民会館にて開催併せて「せいりゅう」18号発行。7月5日~8日【米国】AA55周年がシアトルで開催。9月、AA徳山グループ(山口県)、AAはがくれグループ(佐賀地区)が発足。10月10日、長崎AA10周年を開催。12月1日(福岡会場)、2日(北九州会場)にて福岡地区第3回AAコンベンション、AAパブリックセミナー(テーマ「飲まない生き方を探し求めた」)を開催。
1991年(平成3)1月、第一回AA山口地区集会開催。2月、地区集会を地区委員会と名称を変更し、毎月一回を原則にAA山口地区委員会が発足。3月1日、福岡サンライズグループが発足。3月頃よりバブル景気の崩壊が始まる。4月1日、福岡グループがレインボーグループと改称。7月28日、奈良県断酒連合会19周年記念大会と奈良若草断酒会共催で大和郡山南部公民館にて開催併せて「せいりゅう」19号発行。7月「奈良若草断酒会からのおたより」を発行。奈良若草断酒会が郡山保健所に家族教室の開催を依頼。8月、AA大分グループ(大分地区)ではグリーン・カルチャー・センターと大分健生病院内会議室の2会場で、週3回のミーティングが行われた。10月11日、AAレインボーグループよりニューズレター「AAわたしの青空」1号が発行。10月13日、AAレインボーグループ4周年記念ミーティングが八幡西市民センターで開催。11月2日、AA大分グループ主催の第2回パブリック・ミーティング(テーマ「アルコール依存症からの解放を」)がグリーン・カルチャー・センターで開催。11月3日、奈良県立医科大学にて「アルコール依存と嗜癖行動「AA福岡デイジーグループ」い」シンポジウム開催。12月1日、「アルコール・シンドローム」第25号、アルコール問題全国市民協会出版部発行にベッティ・フォード元米国大統領夫人(アルコホリック、ベッティ・フォード・センターの設立者)のメッセージが掲載。
1992年(平成4)2月10日、AAレインボーグループ広報委員会よりニューズレター「AAわたしの青空」2号が発行。2月、防府グループが発足(山口地区)。4月26日、小塩完次(第10代財団法人日本禁酒同盟理事長)が94歳で心不全にて死去。葬儀告別式は同月29日武蔵野市の西久保コミセンで執り行われた。5月18日、宮下忠子(元東京都城北福祉センター医療相談員・ドキュメント作家)と回復しつつあるアルコール依存症者がジャン・ミニー神父に会いに渡米。5月20日、AAレインボーグループ広報委員会よりニューズレター「AAわたしの青空」3号が発行。5月31日、奈良県断酒連合会20周年記念大会が奈良県新公会堂にて開催。6月2日、AA大分グループが、若草グループと日吉グループに分離。6月14日、AAレインボーグループ主催のステップセミナーが戸畑公民館で開催。同日、AAレインボーグループ広報委員会よりニューズレター「AAわたしの青空」4号が発行。6月28日、奈良若草断酒会5周年記念大会が三郷町コミセンにて開催。テーマ「家族の酒害体験に学ぶ」282名参加。7月5日(日)、AAオール九州ステップグループのオープン・スピーカーズ・ミーティングが蓮沢病院で開催。このミーティングは蓮沢病院断酒会とAAオール九州ステップグループの合同であった。8月29日(土)~30日(日)、AA大分地区グループ主催の「陣屋の村ワークショップ」が大分県狭間町営陣屋の村童里夢館で開催。9月1日、AAレインボーグループ、福岡デイジーグループ広報委員会よりニューズレター「AAわたしの青空」5号が発行。9月6日、AA熊本地区第3回オープン・スピーカーズ(テーマ「回復~自分に正直に」)が大江市民センターで開催。10月11日、ふくおかのAA5周年記念ミーティング(テーマ「よろこび」)がカトリック古賀教会にて開催。同日、AAレインボーグループ、福岡デイジーグループ広報委員会よりニューズレター「AAわたしの青空」5周年記念号6号が発行。10月22日、西日本新聞(夕刊)に「アルコール依存症克服 アノニマス活動 九州に輪」の見出しで記事が掲載。11月1日(日)、AA大分地区グループ(日吉グループ・若草グループ)の主催で、第3回パブリック・ミーティング(テーマ「自分を見つめる」)がグリーン・カルチャー・センターで開催。11月15日、全断連全国第29回大会が奈良市中央体育館にて開催(5,888名参加)併せて「せいりゅう」20号全国大会記念号発行。同日、AA宮崎地区合同ミーティング(テーマ「新たな出会い」)が宮崎県福祉総合センターで開催。この年、福岡のAAレインボーグループからAA福岡デイジーグループが分離。12月25日、AAレインボーグループ、福岡デイジーグループ広報委員会よりニューズレター「AAわたしの青空」7号が発行。
1993年(平成5)2月24日、AAレインボーグループ、福岡デイジーグループ広報委員会よりニューズレター「AAわたしの青空」8号(特別号)が発行。4月1日、南大和断酒会より橿原市断酒会分離。4月11日、奈良若草断酒会平成5年度定期総会が郡山福祉会館にて開催。4月18日、奈良県断酒連合会役員改選会長に芳田博彦、事務局長に小池亨を選出。5月、萩グループが発足(山口地区)。6月6日~7日、JSO主催のパブリック・ミーティングが開催、7月から宜野湾市真栄里カトリック教会と那覇市首里カトリック教会を会場にミーティングが開始された。(沖縄地区)。7月18日、AAレインボーグループ、AA福岡デイジーグループの広報委員会よりニューズレター「AAわたしの青空」10号(特別号)が発行。9月7日、東京断酒新生会40周年記念大会がサンパール荒川(荒川区民館)で開催された。9月19日、AA熊本地区第4回オープン・スピーカーズ・ミーティングが熊本市長嶺町の詫間市民センターで開催。この頃、AA熊本地区では熊本手取グループ、バウンダリーグループ、熊本市グループの3グループがあり、メンバーは合計でも十数名程度であった。11月3日、奈良県断酒会連合会第21周年記念大会が桜井市民会館にて開催併せて「せいりゅう」21号発行。11月19日、奈良若草断酒会が会則改正を協議。11月28日(日)、AA大分地区グループ(日吉グループ・若草グループ)の主催で、第4回パブリック・ミーティング(テーマ「しらふで生きる」)がグリーン・カルチャー・センターで開催。12月、西京グループが発足(山口地区)。
1994年(平成6)6月5日~6日、第2回パブリック・ミーティング、これと同時に沖縄地区主催の第一回オープン・スピーカーズ・ミーティングが行われた。7月24日、奈良県断酒会連合会第22周年記念大会が奈良市中央第二武道場にて開催(5,888名参加)併せて「せいりゅう」22号発行。8月、真栄里カトリック教会のミーティングが「AAはごろもグループ」と首里カトリック教会のミーティングが「AA首里グループ」として登録。(沖縄地区)。10月10日、全断連第31回全国(鳥取)大会が米子産業体育館で開催(参加者4182名)。12月現在、AA関東甲信越のグループ数107で、全国のAAメンバーが約4千人弱である。関東甲信越のメンバーは半分の2千名と推測される。
1995年(平成7)1月17日(火)、阪神・淡路大震災発生。断酒会では死者1名、負傷者5名、行方不明5名、倒壊家屋133棟の被害があった。全断連は1月31日付けで県下連合会に義援金を呼びかけた。2月4日、奈良県断酒会連合会が第15回一泊研修会を天理教十二母屋にて開催。3月24日、『AA日本20年の歩み いくたびもの出会いを重ねて』を同編さん委員会が発行。6月25日、全断連第25回通常総会が神奈川県立精神保健センターで開催(評議員制度スタート)。7月23日、奈良県断酒会連合会第23周年記念大会が大和郡山市南部公民館で開催併せて「せいりゅう」23号発行。
1996年(平成8)1月21日、全断連第32回全国(兵庫)大会が神戸ポートアイランドホールで開催(参加者6018名)。2月3日、奈良県断酒会連合会第16回一泊研修会が天理教十二母屋にて開催。2月15日、奈良県精神保健福祉センター映画「もうひとつの人生」を上映。4月1日、生駒断酒会発足。8月25日、奈良県断酒会連合会第24周年記念大会と生駒断酒会発足記念が生駒市図書会館にて併催併せて「せいりゅう」24号発行。9月15日、AA第1回沖縄地区委員選出集会が開催され、沖縄地区委員会の活動が始まり9月25日に「地区便り」第1号発行。この年、沖縄県具志川市(現、うるま市)のいずみ病院の要請でAAの病院メッセージが開始(2000年9月まで)。はごろもグループ(前出)の第2会場として北谷の聖公会オールソウルズ教会でミーティングが始まる。名護カトリック教会内うみのほし幼稚園で山原シーサーグループのミーティングが開始。
1997年(平成9)2月1日、奈良県断酒会連合会第17回一泊研修会が天理教十二母屋にて開催。4月1日、医療法人共生会下司病院開設(高知県)。6月1日、奈良県若草断酒会創立10周年記念大会が大和郡山市片桐公民館にて開催。8月31日、奈良県断酒会連合会第25周年記念大会が奈良県社会福祉総合センターにて開催併せて「せいりゅう」25号発行。
1998年(平成10)2月7日、奈良県断酒会連合会第18回一泊研修会が天理教十二母屋にて開催。5月12日、「自販機を廃止・TV広告も禁止・・東京小売酒販組合の提言」(朝日新聞掲載)、6月3日、「酒の販売規制 緩めるか強めるか」(朝日新聞掲載)。7月20日、「酒の社会規制求めアピール」ASK創立15周年集会が東京都中央区中央会館で開催。「アダルトチャイルド」の概念を提唱した米国のクラウディア・ブラックの講演と併せて、アルコール問題の予防に貢献した、国立療養所久里浜病院名誉院長河野裕明、イッキ飲み防止連絡協議会代表加来仁に功労賞が授与され。「2000年アピール」を採択した。(朝日新聞掲載)。8月30日、奈良県断酒会連合会第26周年記念大会が香芝市中央公民館にて開催併せて「せいりゅう」26号発行。9月26日、日本禁酒同盟・断酒修養会四十五周年記念大会を開催。12月13日、SOSクラブ(酒なし生活会・中川俊雄代表)会報100号を発行。
1999年(平成11)2月6日、奈良県断酒会連合会第19回一泊研修会が天理教十二母屋にて開催。6月19日~20日、AA第13回九州・沖縄ラウンドアップが沖縄県佐敷町(現、南城市)の沖縄厚生年金休暇センター(現、ウエルサンピア沖縄)で開催。8月29日、奈良県断酒会連合会第27周年記念大会が奈良県新公会堂能楽ホールにて開催併せて「せいりゅう」27号発行。3月、AA鳥栖グループ(佐賀地区)が発足。8月、NPOおかやまたけのこ会設立。10月16日~17日、第36回(アメシスト=女性アルコール依存症者)全国(神奈川)大会が開催。この年、AAはごろもグループの第2会場がチャタングループ(沖縄地区)として登録、活動を開始(2006年2月まで)。
2000年(平成12)1月1日、奈良若草断酒会春日大社初詣(13名参加)。2月5日、奈良県断酒会連合会第20回一泊研修会が天理教十二母屋にて開催。2月13日、第12回大阪アメシスト一日研修会をアビオ大阪にて開催(参加者約140名)。3月17日、平成11年度公衆衛生事業功労者知事表彰(奈良県断酒会連合会推薦)芳田博彦連合会長受賞。3月、奈良県断酒会連合会は酒害啓発冊子「酒をやめたい人のために」第1版発行。4月23日、那覇断酒会15周年記念大会及び那覇古島支部結成大会が開催(参加者150名)。8月27日、第27回近畿ブロック(奈良)大会と奈良県断酒会連合会第28周年記念大会が桜井市民会館にて開催併せて「せいりゅう」28号発行。11月、AA武雄わかくすグループ(佐賀地区)が発足。11月、沖縄の南山病院に病院メッセージ始まる(2004年12月まで)。12月21日ASKが特定非営利活動法人(NPO)として再スタート。この年、小禄カトリック教会でAAニュー宇栄原グル^プのミーティングが始まる(2001年まで)。糸満市地域生活支援センターでAA糸満グループのミーティングが始まる(2010年12月まで)。
2001年(平成13)1月7日、芳田博彦奈良県断酒会連合会会長逝去。会長代行掘後卓雄。2月3日、奈良県断酒会連合会第21回一泊研修会が天理教十二母屋にて開催。3月3日、北大東村(沖縄県)で酒害講演会が開催され、上地俊二郎が酒害体験を語り、溝内愛子保健婦と共に酒害者宅を個別訪問。3月、酒害啓発冊子「酒をやめたい人のために」第2版500部増刷配布。5月6日、奈良県断酒会連合会役員改選会長に小池亨、事務局長に高橋弘昌を選出。8月19日、奈良県断酒会連合会第29周年記念大会が天理市中央公民館にて開催併せて「せいりゅう」29号発行。故前芳田博彦連合会長追悼例会が奈良県文化会館小ホールにて開催。9月11日、米国同時多発テロ事件発生。
2002年(平成14)2月2日、奈良県断酒会連合会第22回一泊研修会が天理教十二母屋にて開催。2月7日、北谷断酒会(沖縄県)結成発会式が北谷町保健相談センターで開催され170名が参加。3月1日、第14回九州アルコール関連問題学会沖縄大会がテーマ「できることから始めよう」でパシフィックホテルにて開催。3月24、奈良若草断酒会平成14年度定期総会が郡山社会福祉会館にて開催。3月、酒害啓発冊子「酒をやめたい人のために」第3版発行。6月24日、渡名喜(沖縄県)断酒会結成発会式が老人福祉センターにて開催(参加者40名)。8月19日、奈良県断酒会連合会第30周年記念大会が、かしはら万葉ホールにて開催併せて「せいりゅう」30号発行。この年、岡山禁酒会館が文化庁により登録文化財に指定された。
2003年(平成15)1月、「金光6月町報」No、675に町議会議長として安達兼人(中国断酒修養会長)が掲載。2月2日、奈良県断酒会連合会第23回一泊研修会が天理教十二母屋にて開催。3月17日、平成14年度公衆衛生事業功労者知事表彰(奈良県断酒会連合会推薦)関谷圭一受賞。8月31日、奈良県断酒会連合会第31周年記念大会が香芝公民館にて開催併せて「せいりゅう」31号発行。10月19日、全断連第40回全国(愛知)大会が名古屋総合体育館で4500名が参加して開催、小林哲夫が「全断連40年の歩み」を記念講演。この年、岡山禁酒会館が創立80周年を迎えた。
2004年(平成16)2月7日、奈良県断酒会連合会第24回一泊研修会が天理教十二母屋にて開催。3月21日、奈良若草断酒会平成16年度定期総会が郡山社会福祉会館にて開催。2月17日平成15年度公衆衛生事業功労者知事表彰(奈良県断酒会連合会推薦)岡本寛治受賞。3月14日、第2回アルコール問題市民セミナーが、かしはら万葉ホールにて開催。4月、国立療養所久里浜病院が独立行政法人として発足。9月30日、奈良県断酒会連合会第32周年記念大会が香芝公民館にて開催併せて「せいりゅう」32号発行。
2005年(平成17)1月1日、奈良若草断酒会春日大社初詣(23名参加)。2月5日、奈良県断酒会連合会第25回一泊研修会が天理教十二母屋にて開催。3月13日、第3回アルコール問題市民セミナーが、かしはら万葉ホールにて開催。3月22~23日、大阪マック12ステップスペシャルセミナー(司会田島巳喜雄)が阿倍野教会にて開催。4月24日、沖縄県断酒会連合会・那覇断酒会20周年記念大会がテーマ「初心、原点を忘れずに。」で沖縄県中央保健所にて開催。5月15日、奈良県断酒会連合会役員改選、会長に渡邉雅男、事務局長に高橋弘昌を選出。7月21日、奈良県断酒会連合会第33周年記念大会が香芝公民館にて開催併せて「せいりゅう」33号発行。7月31日、「松村春繁生誕100年」全断連全国広報紙「かがり火」126号で特集⑮.11月5~6日、第17回東北アルコール関連問題研究会がウエルサンピア山形で開催。12月13日、全断連元理事長井原利逝去。12月15日、全断連事務所を豊島区目白より千代田区岩本町に移転。
2006年(平成18)1月1日、奈良若草断酒会春日大社初詣(22名参加)。2月5日、奈良県断酒会連合会第26回一泊研修会が天理教十二母屋にて開催。3月12日、第4回アルコール問題市民セミナーを生駒コミセンにて開催。7月21日、奈良県断酒会連合会第34周年記念大会が大和郡山城ホールにて開催併せて「せいりゅう」34号発行。
2007年(平成19)1月1日、奈良若草断酒会春日大社初詣(25名参加)。2月2日、奈良県断酒会連合会第27回一泊研修会が天理教十二母屋にて開催。2月12日、平成18年度公衆衛生事業功労者知事表彰(奈良県断酒会連合会推薦)掘後卓雄受賞。4月13日、生駒断酒会アメシスト例会(第2金曜日)発足。6月3日、第34回近畿ブロック(奈良)大会開催併せて「せいりゅう」35号発行。6月3日、第9回全断連(高知)公開セミナーが高知市高知城ホールにて開催⑮.8月26日、奈良県断酒会連合会第35周年記念大会が葛城市當麻文化会館にて開催。8月16日、安達兼人(日本禁酒同盟中国断酒修養会初代会長)が脳梗塞で死去。NPOおかやまたけのこ会が飲酒運転撲滅キャンペーンに協力。「アルコール依存症 どう影響? 飲酒運転「常習者」調査を夕刊に掲載。「寛仁さまだけではない 増える 隠れアルコール依存症」夕刊フジに掲載。10月21日、全断連第44回全国(宮城)大会が仙台市体育館にて開催(参加者2,595名)⑮.この年、AA日本の創立期に尽力したジャン・ミニー神父召天。
2008年(平成20)1月1日、奈良若草断酒会春日大社初詣(25名参加)。参詣後、奈良公園若草山にてミニ例会1月22日、平成19年度公衆衛生事業功労者知事表彰(奈良県断酒会連合会推薦)奥村照男受賞。2月2日、奈良県断酒会連合会第28回一泊研修会が天理教十二母屋にて開催。3月30日、奈良若草断酒会平成20年度定期総会が郡山社会福祉会館にて開催。4月、はっぴいミーティングが幸町市民センターで開始された。当初は女性のためのWクローズド・ミーティングであった。8月14日(木)、「変わり行く労働者の街 横浜・寿にすんでみる アルコール依存症克服」日本済新聞に掲載。8月31日、奈良県断酒会連合会第36周年記念大会が、なら100年会館にて開催併せて「せいりゅう」36号発行。9月28日、全断連第45回全国(滋賀)が滋賀県立体育館にて開催、参加者3,752名⑮.10月24日、精神保健福祉事業功労者厚生労働大臣表彰(団体)、日精連合会長表彰渡邉雅男(個人)。11月10日、30都道府県、36の断酒会・連合会が協力全国70ヶ所で一斉に「全国飲酒運転撲滅キャンペーン」を実施⑮。12月24日(水)、「常習飲酒運転根本から絶つ」朝日新聞に掲載。
2009年(平成21)1月1日、奈良若草断酒会春日大社初詣(26名参加)。参詣後、奈良公園若草山麓にてミニ例会を開催。2月7日、奈良県断酒会連合会第29回一泊研修会が天理教十二母屋にて開催。2月9日、「定年後に潜む危機 アルコール依存症」日本経済新聞に掲載。2月22日、平成20年度公衆衛生事業功労者知事表彰(奈良県断酒会連合会推薦)山本公男受賞。3月29日、奈良若草断酒会平成21年度定期総会が郡山社会福祉会館にて開催(事務局が新井和彦から瀬尾邦治に変更)。8月6日、「休職中は酒浸りで妻に暴力」夕刊フジに掲載。8月30日、奈良県断酒会連合会第37周年大会を生駒市中央公民館で開催あわせて「せいりゅう」第37号を発行。10月9日、精神保健福祉事業者厚生労働大臣表彰渡邉雅男受賞(個人)。10月18日、全断連第46回全国(岡山)大会が岡山市桃太郎アリーナに3,500名を集め開催。12月22日(木)、「断酒 自分の弱さを直視」くらし 読売新聞に掲載。12月25「毎日二合以上 要注意」読売新聞に掲載。
2010年(平成22)、1月1日、奈良若草断酒会春日大社初詣(29名参加)。参詣後、奈良公園若草山麓にてミニ例会を開催。2月3日、平成21年度公衆衛生事業功労者知事表彰(奈良県断酒会連合会推薦)眞鍋秀一受賞。2月6日、奈良県断酒会連合会第30回一泊研修会が天理教十二母屋にて開催。2月18日(木)「酒の規制 欧州で急拡大 英・飲み放題禁止、ミラノ・禁酒に賞金」朝日新聞に掲載。3月29日、奈良若草断酒会平成22年度定期総会が郡山社会福祉会館にて開催。3月31日(水)、「イッキは拒否!酒の強要防止の手ぬぐい配布」読売新聞に掲載。5月、AA日本メンバーシップサーベイ2010を実施(有効回答数1,794名)。住んでいる地域は関東甲信越地域50.2%、次いで関西地域12.8%、九州沖縄地域11.4%、年齢は最年少18歳、最高齢87歳、平均年齢51.4歳、性別は男性72.3%、女性26.4%、お酒を飲まないでいる期間は1ヶ月未満4.6%、4年未満50.9%8年未満74.2%、平均期間6.5年など調査。9月5日、奈良県断酒会連合会第38周年記念大会が田原本弥生ホールにて開催あわせて「せいりゅう」38号発行。10月3日、全断連第47回全国(和歌山)大会が和歌山ビックホエールに3,200名を集め開催。11月2日(火)「酒依存 自殺の危険信号」朝日新聞掲載。12月4日、河野裕明(元国立療養所久里浜病院長)が昇天。12月19日、奈良若草断酒会の元事務局長瀬尾邦治肝臓癌にて急逝。
2011年(平成23)1月1日、AA日本・四国地区立ち上げ。同日、奈良若草断酒会春日大社初詣。参詣後奈良公園若草山麓でミニ例会。1月15日、故河野裕明(洗礼名:ヨハネ)追悼ミサがカトリック吉祥寺教会で執行。2月5日、奈良県断酒連合会第31回1泊研修会が天理教十二母屋にて開催。2月13日、アルコール関連問題県民セミナーが奈良県下、郡山・生駒・天理・橿原の4ヶ所で開催。3月11日(金)東日本大震災が発生。AA日本の東北地域の岩手、宮城、福島県の太平洋側にあるAAミーティング場が一時的に潰滅的状態になる。関東地方でも福島原子力発電所の事故により、ミーティング会場の利用に大きな影響を与えた。3月13日(日)、山谷マック28周年感謝の集い(ムーブ町屋)。3月27日、奈良若草断酒会平成23年度定期総会が郡山社会福祉会館にて開催。4月1日、法政大学において『学生の飲酒に関するルール』(本学教職員が同伴で、かつ学生センターに届けた場合のみ飲酒可)が発効し、市ヶ谷キャンパス他のキャンパスにも適用。同日、奈良市断酒会昼例会発足。4月1日、公益社団法人全日本断酒連盟が設立(旧社団法人を解散移行)⑮。4月3日、全断連第46回中国断酒ブロック(岡山・倉敷)大会・岡山断酒新生会結成45周年・大会テーマ「和」、サブテーマ断酒新生が開催され記念誌「ともしび」が発行された。4月24日、第1回奈良県アメシスト1日研修会が郡山三の丸会館にて開催。5月15日、久里浜医療センターで「河野裕明を偲ぶ会」を開催。6月5日、奈良県断酒会連合会第39周年記念大会が奈良県社会福祉総合センターにて開催あわせて「せいりゅう」第39号発行。9月3日(土)・4日(日)第29回中国四国アルコール関連問題研究会高知大会テーマ「アルコール問題と地域ネットワーク」が高知会館にて開催。11月9日(水)主催NPO法人<仲間と共に歩む会>第6回アルコール問題セミナー、テーマ「回復はある」講師:後藤恵(成増厚生病院医師)清瀬市生涯学習センターにて開催。10月23日、全断連第48回全国(静岡)大会がコンベンションセンター・グランシップにて3,118名が集い開催。11月18日(金)・19日(土)第52回中国四国精神神経学会、中国四国精保健学会が高知会館で開催。12月10日、若草アメシスト10週年記念例会を若草1泊の研修中に別室にて開催。講演八木植松クリニック院長木塚秀人。12月18日、映画「西原理恵子の酔いがさめたら、うちに帰ろう」上映、高知市自由民権館、映画で啓発「酒害から共に立ち直ろう」代表二神啓通(高知断酒新生会)。12月19日、奈良若草断酒会が瀬尾邦治追悼例会を豊岡詰所で開催(46名参加)。
2012年(平成24)1月1日(日)、奈良若草断酒会春日大社初詣。参詣後、奈良公園若草山麓でミニ例会。1月14日(土)、奈良若草断酒会橿原支部発足例会。2月4日(土)、奈良県断酒会連合会第32回1泊研修会を天理教十二母屋にて開催。2月12日(日)、アルコール関連問題県民セミナーを奈良県下、郡山・生駒・天理・高田の4ヶ所で開催。3月1日(水)、高嶺病院(アルコール依存症治療専門)が創立30年を迎えた(山口県)。同月、北海道地域依存症対策推進委員会発行の『アルコール・薬物問題対策の現状と課題に関する関係機関調査報告書』によると「アルコール・薬物依存症からの治療回復のための専門病院・施設などは地域格差があり、ほとんどが札幌圏に集中している。」4月、国立療養所久里浜病院が独立行政法人国立病院機構久里浜医療センターに改称。7月1日、奈良県断酒会連合会第40周年記念大会が、なら100年会館で開催あわせて「せいりゅう」第40号発行。記念事業として「せいりゅう」電子化。8月20日(月)、AA葛飾柴又グループ(城東地区)が発足、9月13日(木)よりミーティングを柴又憩い交流館で開始。10月4日(木)、AA葛飾柴又グループが柴又散策フェローを開催。10月10日(水)広島断酒ふたば会・創立46周年記念特別例会。広島市社会福祉センターにて開催。10月28日、全断連第49回全国(兵庫)大会が神戸ポートアイランドホールにて開催。11月30日、矯風会主催の「ストレスとアルコール依存症」後藤恵医師の講演会が矯風会館で開催。11月4日(日)、AA城東地区主催の「隅田川七福神巡り」が開催。11月、はっぴいミーティング(前出)がAAはっぴいグループとなり仙台市福祉プラザを会場にミーティングを開始。11月、「KSKQ奈良若草断酒会からのたより」No.240号発行。12月2日(日)「女性酒害者のみなさん広島へどうぞ」第一回中国ブロック・アメシストの集いが、ワークピア広島で開催。主催は全断連中国ブロック。12月9日(日)、奈良若草断酒会創立25周年記念大会が天理教東本詰所にて開催。
2013年(平成25)2月20日(水)、AA葛飾柴又グループがステップ・ミーティングを青砥高架下集い交流館で開始(2014年2月中止)。3月3日(日)、山谷マック30周年感謝の集い(日暮里サニーホール)。3月13日、全断連元理事長橋本勝之逝去。⑮3月17日(日)、AA葛飾柴又グループ主催の第1回ゲスト・スピーカーズ・セミナー(テーマ「飲まないで生きる~ソーバー10年を超えた仲間たち~」)が特別ゲストに作家宮下忠子を招き柴又憩い交流館で開催。3月31日(日)、平成25年度奈良若草断酒会定期総会が大和郡山市社会福祉会館にて開催。4月1日、ときのこえ(救世軍公報)に「アルコール依存症は病気です。」眞鍋精一の一文が掲載された。6月6日(木)なだいなだ(本名:堀内秀)すい臓ガンで死去。享年83歳。(国立療養所久里浜病院にアルコール病棟が新設された時、厚生省(現、厚労省)から派遣された精神科医の二名内の一人、もう一名は故河野裕明である。)6月18(火)、朝日新聞紙上に「酒断つ勇気後押しー欲求抑える新薬(レグテクト)に保健適用」が掲載。6月AA日本メンバーサーベイを実施、住んでいる地区、関東甲信越51.6%、次いで九州沖縄13.4%、関西12.8%、の順。性別男性67.0%、女性25.0%、無回答7.9%。年齢50代32.1%、40代29.0%、30代9.1%等。7月21(日)第23回参議院通常選挙で自公圧勝、衆参過半数。7月27日(土)、矯風会主催で「震災被災地のアディクション問題」をテーマに講師中山秀紀医師(久里浜医療センター・アルコール依存症担当)の講演会を矯風会館で開催。4月15日、児玉菊子(和歌山断酒道場主・故児玉正孝夫人)享年100歳で逝去。7月28日(日)、NPO法人仲間と共に歩む会がアルコール問題を考える集いを開催、講師比嘉千賀・ひがメンタルクリニック院長(東村山市・萩山公民館)。同年、8月10日(土)「断酒活動、頭打ち」が朝日新聞に掲載。同月、奈良県断酒連合会会誌せいりゅう清流第41号発行。9月1日(日)アル法第2回制定を願う集い(大阪大会)が堺市ビック・アイにて開催。9月28日、「日本の断酒会発祥第60周年記念例会」が日本禁酒同盟・断酒修養会主催で武蔵野市西久保コミセンにて開催。記念講演「重なる歴史の断酒会 今日を活かそう」講師下司病院理事長下司孝之。【実見】10月29日、「新薬で広がる断酒治療法」毎日新聞掲載。11月16日、上野署に「来店した客を泥酔させ暗証番号を聞き出し、ATMからキャッシュカードで金を奪われた」2012年~13年10月末までに620件の相談が寄せられ、被害金額2億2700万円にのぼると発表(朝日新聞夕刊に掲載)11月17日、超党派の国会議員による「アルコール健康障害対策基本法」(以後、アル法と略す)衆議院通過。同日、全断連第50回沖縄大会が宜野湾市沖縄コンベンションセンターにて開催。12月1日(日)、若者の飲酒を考えるフォーラム実行委員会主催20周年記念式典+基調講演「アディクション」問題を考える(講師:樋口進)が横浜市健康福祉総合センターで開催。7日、アル法参院可決成立。8日(土)に予定されていた「第三回アルコール健康障害対策基本法制定を願う集い」が「制定会議」に変更され、岡山コンベンションセンターにて開催。12月13日(金)、官報号外272号により法律第109号(内閣府本府)として公布された。六ヶ月以内に施行、3年以内に内閣府から厚生労働省に移管することとされた。この年6月に行ったAA日本メンバーサーベイ(任意の調査、有効回答1,989名)では、居住地は関東甲信越が51.6%、次いで九州・沖縄が13.4%、関西12.8%で年齢別では50代がピークで、40代でミーティングはじめて一年未満が11%で、20年以上は7.4%で無効回答が9.4%。お酒を飲まない期間は1年未満が16.3%、20年以上は7.6%、無効回答は6.9%であった。11月17日、全断連第50回全国(沖縄)大会が宜野湾市沖縄コンベンションセンターにて開催。
2014年(平成26)1月、世界のAAメンバー数は約214万人(日本は全国で約600グループ、約5,700
名)1月12日(日)、断酒友の会の新年例会が江東区民文化センターにて開催[実見]。2月2日(日)、元奈良若草断酒会元会長奥村照男急逝。2月14日(金)~16日(日)、大雪断酒学校が全断連主催で北海道・旭川で開催。4月20日(日)全断連第49回四国断酒ブロック大会(高知)高知市オレンジホールにて開催。4月21日(月)、奈良若草断酒会奥村照男(元会長)追悼例会を豊岡詰め所で開催。5月10日(土)~12日(月)、全断連・高知断酒新生会主催の第70回松村断酒学校が高知県長岡郡本山プラチナセンターで開催。5月25日(日)アルコール健康障害対策基本法推進の集いIN東京が内閣府・厚生労働省・アルコール問題議員連盟等の後援でサンパール荒川(東京都荒川区)にて開催。6月1日、アル法施行。6月17日、NHK総合TV「クローズアップ現代」で、アルコール依存症者が100万人(前年度調べ109万人)を突破し、特に社会進出に伴い女性患者が倍増していると報じ、出演していた樋口進医師(国立病院機構・久里浜医療センター院長)は「予防が大切と」警鐘を鳴らした。7月5日(土)、広島断酒ふたば第43回飲酒運転追放パレードを広島市内で挙行。7月28日、福岡県弁護士会とAAでアルコール依存症の研修会を開催。7月31日(木)、山口県産の日本酒がブームとなり、食用米を酒米に転用、休耕田でも酒米の耕作が開始された。(NHK総合TV)8月20日(水)、沖縄石垣島、石垣署管内で泥酔して路上で寝る行為(路上寝)が増加し、道交法で規制出来ないか検討に入った。(テレビ朝日Jチャンネル)。8月21日(木)、宇都宮大学のバスケット・ボール部の合宿で19歳の女子大生が急性アルコール中毒で死亡。(同前)9月27日(土)、日本禁酒同盟が日本の断酒会発祥61年記念例会が真栄里仁(久里浜医療センター)医師を講師に招き武蔵野市西久保コミセンにて開催。9月14日(日)、全断連第41回近畿ブロック(奈良)大会がやまと郡山城ホールにて開催。9月27日(土)正午前、御嶽山が水蒸気噴火を起こし死者55名・行方不明者8名(10月11日現在)を出し戦後最悪の火山噴火災害となった。11月10日(月)~11月16日(日)アルコール関連問題啓発週間のポスターがコンビニにも貼り出される。これは、アル法の施行を受けて内閣府主催、法務省、国税庁、文部科学省、厚生労働省・警察庁・国土交通省が共催、11月10日(月)、大阪ではエル・シアターで、11月12日(水)は東京のヤクルトホールでフォーラムが開催された東京では女優東ちづる+ASK代表今成知美との対談形式の講演があり、保坂昇NPO法人東京断酒新生会副理事長の体験談あり、立教大学のサークル合宿中のイッキ飲ませで息子を亡くした母親の話等があった。アルコール依存症の父親を持つ息子ハル君を主人公にした絵本の朗読、東京大学学生のダンス・パフォーマンスがあり休憩後、松本俊彦精神科医(国立精神神経医療センター)の講演「アルコールとうつ病・自殺―死のトライアングルを防ぐためにー」があり終演となった[実見]。12月30日、広島断酒ふたば年末特別例会を祇園カトリック教会にて開催。
2015年(平成27)1月3日(土)、広島断酒ふたば年始特別例会を祇園カトリック教会にて開催。1月28日(水)、葛飾区・新小岩保健センター主催で講演会「アルコール依存症って、どんな病気」講師:岩原千絵精神科医(久里浜医療センター)が新小岩北地区センターで開催[実見]。2月7日(金)~2月8日、奈良若草断酒会、第35回奈良県連1泊開催。2月7日(金)、8日(土)、9日(日)、第20回AA日本評議会がテーマ「広めよう、報せよう、あなたの街にAAがあることを」幕張セミナーハウスで開催。NPO法人AAは第20回評議員会の勧告にを受け常任理事会でアル法ネットへの賛同を取り下げる決議がなされた。2月20日(金)21(土)22日(日)、AA日本40周年をAA日本ゼネラルサービス(JSO)主催で横浜の神奈川県民ホールと横浜市開港記念会館で開催(参加人員2000名主催者側発表)[実見]。3月25日(水)、葛飾区・新小岩保健センター主催で講演会「回復のために家族・支援者ができること」講師:後藤恵(ごとう・めぐみ)精神科医(成増厚生病院・診療部長)が新小岩北地区センターで開催。[実見]。3月29日(日)、奈良若草断酒会平成27年度若草定期総会開催。5月19日(火)、矯風会学習会「依存症の広がり-相談されたらどうする?」講師川谷淑子(酒たばこの害防止部門幹事)と依存症回復者の体験談が日本キリスト教団安中教会にて開催。5月20日、AA日本評議会事務局が『第20回評議会報告書』を発行。6月21日、AA日本評議会報告会(中央・城東・城南・城北・千葉5地区合同)が東京都障害者福祉会館で開催。同日、城東地区セミナー委員会+城東地区委員会が賀川記念館(本所)で開催。6月10日時点、AA日本関東甲信越地域のグループ数は265グループ。640会場でミーティングが行われている。【米国】7月2日~5日、ジョージア州アトランタにてAA80周年インターナショナル・コンベンションを開催。7月20日、AA城南地区BBQフェローが世田谷区カトリック瀬田教会で開催。7月25日(土)、AA玉川グループ30周年感謝の集いが世田谷ボランティアセンターで開催。8月2日(日)、AA向島グループ10周年+AA日本橋グループ7周年感謝の集い(テーマ「よかったら一緒にやりませんか?」)がすみだ中小企業センターで開催。8月9日(日)AA日本評議会報告会(東多摩・西多摩・南多摩・北多摩・にし城西・ひがし城西6地区合同)が八王子労政会館で開催。同日、AA千代田グループステップセミナーが聖イグナチオ教会で開催。8月15日、AZYPAA2015第4回AAアジア地区ヤング・ラウンドアップ応援企画映画鑑賞会「Bill W.」が「がんばれ子供村3階プレイルーム」にて開催。8月16日(日)、第11回AA世田谷グループの集いが成城ホールで開催。8月30日(日)、第7回AA埼玉北地区の集い(テーマ「希望~生きていてよかった~」)が行田市商工センターで開催。9月7日(月)公職選挙法の改正で選挙権の年齢を18歳に引き下げたため、飲酒・喫煙年齢も18歳引き下げが自民党の成年年齢に関する特命委員会(委員長今津寛・北海道6区選出衆議院議員)で検討された、全国17の禁酒・禁煙関連団体は記者会見を行い、抗議書を安部晋三総裁と今津寛委員長に当てに送付し「飲酒・喫煙年齢の18歳への引き下げに強くは反対します。」と明確な意思表示を行った。9月1日、一般財団法人日本禁酒同盟の機関紙「禁酒新聞」798号にて終刊。9月5日~6日、2015AA広報ワークショップがフレンドシップハイツよしみ(埼玉県吉見町)で開催。9月8日(火)朝日新聞社説で「酒・たばこ 年齢下げる必要はない」と論評。10月2日(金)・3日(土)・4日(日)、AA関東甲信越地域・2015年秋季ラウンドアップ(テーマ「筑波からAAの光!!~手を取り合って、仲間とともに~」)が、つくばグランドホテルで開催。9月19日20日~21日、AZYPAA(通称アジパ)2015第4回AAアジア地区ヤング・ラウンドアップを沖縄県で開催。9月29日、「飲み放題依存症の危機―那覇・居酒屋従業員が学ぶ」の見出しで、沖縄の居酒屋チェーンの代表砂川恵治代表がおもろ町店に沖縄共同病院の小松知己医師を講師として招き居酒屋従業員に対し講演。砂川代表は「酒を提供する側の私たちがアルコールの危険な側面を把握することが、お客さんへの良いサービスの提供につながる」後半にAAのアジパの記事あり。(沖縄タイムス)。10月12日、AA第16回湘南地区の集いを小田原市民会館で開催。10月17日(土)~18日(日)、AA2015東北ラウンドアップIN秋田(テーマ「信じるようになった~泣ぐ子いねがぁ・飲む子はいねがぁ~」)が、たざわこ芸術村温泉ゆぽぽで開催。11月3日、AAきたやまグループのオープン・スピーカーズ・ミーティング(テーマ「感謝」)が、柏木市民センター(仙台市)で開催。11月12日(木)、支援者向け広報フォーラム(テーマ「AAの友人からのメッセージ、今私たちができること」)が国分寺労政会館で開催。【フランス】11月13日。パリ同時多発テロ事件発生。
2016年(平成28年)2月6日~8日、AA日本第21回評議会が千葉県幕張セミナーハウスにて開催。2月14AA日本2016年第一回関東甲信越地域集会が板橋文化会館にて開催。3月15日、日本禁酒同盟・断酒修養会主催で『初めての断酒会を拓き断酒修養会を営む』出版記念会が武蔵野公会堂で開催【実見】。5月3日(火)、春の水元公園焼肉BBQフェローが水元公園で開催。8月7日、AA福島地区・白河グループ主催の第2回オープン・スピーカーズ・ミーティング(テーマ「アルコール依存症からの解放))が白河市産業プラザ人材育成センターにて開催。8月14日、AA新坂グループ(仙台)主催のオープン・スピーカーズ・ミーティング(テーマ「出会い」))が北山市民センターにて開催。8月25日(木)、AA葛飾柴又グループ(のAAネームまぁ~ちゃんの17年バースデイ・ミーティング(司会:板橋グループ一休)が柴又憩い交流館で開催。9月3日~4日、2016年AA東北ラウンドアップIN宮城(城東地区)テーマ「再生~笑えるようになった~」)が鳴子温泉郷・仙庄館で開催。9月30日、10月1日、2日、AA関東甲信越地域・2016年秋季ラウンドアップ(テーマ「一緒にやろうよ!全員集合~希望への架け橋IN武蔵嵐山」)が国立女性教育会館(NWEC:ヌエック)で開催。
【出典・主な参考文献等】
①『国の光』100号 明治34年10月 日本禁酒同盟会発行
②門馬正順『青葉城の異彩』昭和3年 イデア書房
③青木庄蔵著『回顧75年』昭和12年 財団法人青木匡済財団発行 【非売品】
④松木勝三郎編『かくして山の楽園は建設されたー世界一三井田川炭坑の凱歌―』
近畿禁酒連盟発行 昭和11年7月10日
⑤八木元八著『随筆 舊雨』昭和16年5月11日 東峰書房発行
⑥創立80周年記念 『あしあと』 1886~1966 小塩完次編集 1966年11月27日 横浜禁酒会発行
⑦『日本の禁酒運動史年表(1875-1945)』岩倉病院 杉浦勝 発行年・発行所不明
⑧『断酒五年の歩みー会長大貫純一郎の生涯―』栃木県断酒ホトトギス会・五周年記念事業実行委員会編
昭和50年4月20日発行
⑨長山瑞厳『断酒に捧げん』1981年(昭和56)高知県断酒連合会
⑪『日本キリスト教婦人矯風会年表(1886-2006)』2006年日本キリスト教婦人矯風会発行
⑫『日本禁酒運動の八十年』 1970年 小塩完次著 財団法人日本禁酒同盟
⑬『安藤記念教会七十年史』 1987年 日本キリスト教団安藤記念教会
⑭松信太助編、石井光太郎・東海林静男監修『横浜近代史総合年表』有隣堂 平成元年12月13日発行
⑮『躍進する全断連―50年史』 2014年版 公益社団法人全日本断酒連盟
⑯『いくたびの出会いを重ねて-AA日本20年の歩み-』1995年 AA日本20年の歩み編さん委員会編集発行
⑰宮下忠子著『ミニー神父とアルコール依存症者たち』 1996年 東峰書房
⑱『AA日本30周年記念誌』2005年 AA日本30周年記念誌編纂委員会編集発行
⑲加藤純二著『未成年者飲酒禁止法を作った人―根本正伝』第3刷 2004年発行。
⑳『写真と日記で綴る 小塩完次・とよ子の禁酒運動 世界連邦運動の歩み』2011年
小塩完次記念(財)日本禁酒同盟資料館発行
21、小塩完次編集 排酒雑誌『行進曲』創刊号1923年 早稲田大学排酒同盟発行。
22、小塩政子日本禁酒同盟前事務局長作成 「小塩完次日記抄録(大正15・昭和元年~昭和63年)」
23、小塩立吉日本禁酒同盟現事務局長講演資料 「未成年飲酒禁止法と根本正先生」
24、牧野虎次著『日本の禁酒事業に於ける青木庄蔵翁』昭和3年 財団法人青木匡済財団発行
25、『AA九州・沖縄地域30周年記念誌』発行年発行所不明
26、西川武臣『ペリー来航』(中公新書2380)中央公論新社 2016年6月25日発行
【雑誌・新聞等】
『国之光』 日本禁酒同盟発行 明治34年 99号、100号、101号。102号、103号
大正9年 321号、326号。
『禁酒之日本』 日本国民禁酒同盟発行 47号 大正13年 50号、53号、54号、55号
57号、59年 昭和2年 86号、87号、88号、89号、91号
『婦人新報』 基督教婦人矯風会発行 1941年522号
『酒害研究』(後に「やまびこ・酒害研究」と改題) 酒害防止協会 18号から(国立国会図書館所蔵)
東京日日新聞(国立国会図書館所蔵)
南海タイムス(昭和6年発刊八丈島で発行されている地方紙)
禁酒新聞(日本禁酒同盟資料館所蔵・国立国会図書館所蔵)
※禁酒新聞は昭和40年頃には「酒なし新聞」と名称変更となり昭和45年頃には「酒害予防新聞」名称変更となり
元の「禁酒新聞」となり2015年9月1日798号にて終刊。
新聞断酒【完全復刻版】高知アルコール研究所 1987年発行
KSKQ奈良若草断酒会からのおたより NO239、241、243、245、249.250、251、252、253、254、258、259、260、261、265、268
広島断酒ふたば NO560、564、565、566、572
ほか多数の文献・資料・証言・ホームページを参考にして作成しました。
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